放心から覚醒へ

正直言うと、一昨日の大凪あたりから、少し放心状態が続いていた。それはちょうど一昨年の夏、妻の脊髄手術とその後の治療に付き添って40日間の病室生活のあと、とつぜん退院の許可が下り、まばゆい陽光の中を、ほぼ放心状態のまま妻を連れて自宅に帰ってきた時の心理状態に似ている。もちろんあの時にはいわばすべての問題が解決されたあとの安堵感があったが、今回は解決が先送り、しかも長期にわたる待機生活を余儀なくされるという根本的な違いがある。つまり今回のは中だるみ状態ということだが、精神の弛緩状態であるという点では同じである。
 しかし夜になって、見るとはなしに見ていた「報道ステーション」というテレビ番組で、司会の古舘伊知郎の相手をしていた或る大新聞の編集委員とかいう髯の男の言っていることを聞いて、私の頭の中の計測装置の針が激しくぶれた。話というのは、その新聞が一週間ほど前に行なった例の世論調査のことである。つまり彼は、あの大事故のあとでも、従来のものとさして大きな変化が見られなかったことを、国民がそれだけ成熟していることの印だと言ったのである。 
 なるほどねー、ものは言いようだねー。でも私からすれば、そんなのは成熟なんてものではなく、簡単に言えば平和ボケ、安全ボケ、現在の生活水準を落としたくないというきわめて打算的な意識の表れとしか見えないのである。
 むかしジョン・フォード監督の『わが谷は緑なりき』という映画があった。モーリン・オハラ、ウォルター・ピジョン主演の、炭鉱夫の一家を描いた名画である。度重なる落盤事故にも関わらず働かざるを得ない貧しくも誇り高い一家の物語であるが、原発事故で犠牲になるのは現場で働く人たち(危険な作業は協力社員つまり下請け社員)だけではない、その周囲20キロ、30キロ、いやいやそれですまなく、地域によっては50キロ近くのところまで被害が及ぶ。しかもその最終的な解決に何十年もかかる惨事となるのだ。
 今回、幸いにも女川原発は無事だったが、ここにきて発表された映像を見る限り、あと数十センチで津波が浸入するところだったらしい。なぜ今ごろになって女川の被害状況が公にされたのかちょっと理解できないが、もしかすると東北の他の原発もかなりの被害を受けていたのではなかろうか。
 さきほどの編集委員の話に戻ろう。彼の意見をよく忖度すると、要するに彼は原発推進派でないとしても、少なくとも容認派、現状維持派ということなのだろう。大新聞(もちろんこの場合の「大」は品質形容詞ではなく量的形容詞だが)だから編集委員と言っても他の何人かの編集委員がいて、全員が彼と同意見というわけではないだろうが、なんだか急にその新聞を読む気がしなくなった。でも机脇のケースにはその新聞の販売店との購読契約書が貼られてあって、昨年8月から12ヶ月購読となっている。つまりあと四ヶ月は止められない。でも今度の大震災で、もしかするとすべての契約は白紙になるのかも知れない、そうだったらいいのだが。
 新聞記者といえども人間、つまりその人がどんな意見を持とうが自由である。しかし戦争とか原発とか、その国の、というより人間存在の根幹に関わる大問題に関して現状容認というのが、果たして可能なのだろうか。もちろん賛成と反対のあいだに、どちらとも決められないという態度保留のケースはありうる。しかしその場合であっても軸足はどちらかに置いているはずである。つまり完全な中立はありえない。
 いやもっと簡単に言えば、人生の重要課題はすべて終末からしか見えてこないはずなのだ。つまりお前が今この世を去るとして、子供たちにどんな世界を残したいのか、生活の利便や世間体、その他いっさいの二義的な判断基準を取っ払って、とどのつまりお前は何を望んでいるのか、ということである。先日のべた終末思想、あるいは根源主義がもっともはっきいり見えてくる場面である。
 そっ、放射性廃棄物を地球の内部にぶち込んだままこの世を去りたくはないんだわさ。とうぶんは(ひょっとして死ぬまで?)寝ぼけてなんぞいられない!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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