葉桜の下の妄想

昼食後、鹿島局に来ているはずのゆうパックを取りに、ついでに二、三の郵便物を投函するために出かけることにした。実にさわやかないい天気である。途中、西内君の家に寄る。いつも世話になりっぱなしだから、たまには彼の使いもさせてもらおうとしたのであるが、せっかくだけど今日はない、と言う。しかしついでにいい話を聞いた。それは20キロ圏内に残っていた寝たきり老人や足の不自由なご老人たちに、組織的に食事を届けたり使い走りをする段取りができたそうなのだ。そうだよね、20キロと30キロラインの境目の道路には警官が立ち番しているにしろ、道路以外のところではどこにも正確な境界線が引かれてるわけではないから、かなり流動的に適用することが可能なわけだ。だとしたら、先日話題にした私の友人など、下手にお伺いなど立てずに、知らん振りして操業を続けてたら良かったのかな?
 いずれにせよ、屋内退避などと言われても、いつのまにかだれも守らなくなっていたし、今回の避難準備などと言っても、だれも避難のための準備などしているわけがない。だれもが、もうお上の言いなりになることなど金輪際ごめんだと思っている。
 もう一つ良い知らせを聞いた。それは今日からクロネコと飛脚便が配達を始めたそうだ。だから鹿島局に行ったとき、応対した局員に皮肉たっぷりに「お宅はいつ配達してくれるの? だいいち配達もしないのに料金を通常通り取るというの、とても図々しくない?」 すると彼、「もっともなご指摘です。実は私どもも今日の夕方から配達を始めることにしてまして」「あっそうなの? いやーいいこと聞いた。頑張ってね!」
 帰り道、なるほど、いままでどこに隠れていたのか、郵便局の車が一台、恥ずかしそうに全身真っ赤にして(あゝもともとそうか)行き違った。こんど同じようなことが起こったら(いやー真っ平ごめん!)もうこんな醜態さらすなよ!
 ついでに寄った夜の森公園のいつもの石のベンチで、気持ちよいそよ風を受けながら日向ぼっこをしているとき、なぜかとつぜん強い喜びが電流のように体中を走った。細胞が一つ一つ蘇っていくような感じである。そして強く確信した。さあもう絶対に「緊急時」は来ないぞ、来させるもんか! 準備は準備でも復興準備区域だぞ!
 妻は一昨日から続けて二組、東京からの客人を迎えたことがいい刺激になったのだろうか、以前のように笑顔が多くなってきた。ベンチに並んで坐ってるのも嬉しいらしい。私の方は、いまは葉桜と化した周囲の桜の木を眺めながら、そして少しばかり眠気に誘われながら、次のような妄想に入っていく。
 今回の事故が終息した暁、だれもその責任を問われないで済むのだろうか。そして文化大革命のあとの四人組裁判の映像をなんとなく思い出す。四人組? だれだ? 福島原発の設計者、推進者、それに対応を間違えた菅首相、枝野(えーと何大臣だっけ?) それで四人組はどうなったんだっけ? 死刑? 今の法体系では、そこまでもって行くのは無理だろうな。 じゃ過失致死罪? いやー結局だれもお咎めなしで曖昧な形で幕が引かれるんじゃない。 それっておかしくない? ドン・キホーテは、即座の判決なら分かるけれど、だらだらと長引く裁判制度を批判した。目には目を、歯には歯を、のハムラビ法典まではいかないとしても、福島原発の責任者たちには、たとえば汚染された土地改良のための労働奉仕くらいはしてもらいたいね。
 そのときも眠かったし、そのときのことを書いている今も眠気が強くなってきたので、この辺でやめます。でもよくよく考えると例の工程表の六分の一のところまでしか来てないんだよね。 あーあっ、やってらんねーね。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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