最初の記憶

他の人に宿題を押し付けながら自分は何もしないというわけにもいかず、シシリアさんの要請に何とか答えてみようと思う。と言っても、実は今、私の頭の中に何か適切な答があるわけではない。つまりでっち上げるのではないが何とか搾り出そうとしているのである。
 そういえば過去に一度、幼年時代をなんとか思い出そうとしたことがある。たしかそれは、私がまだイエズス会という修道会にいたときで、幼年時代を振り返って短編めいたものを書こうとしたときである。大筋は意外とすらすら書きとばすことが出来たが、その後、還俗その他、生活上の大変化があって完成にはいたらず、結局は相馬に帰って三年後の1970年、同人誌『青銅時代』第13号に「ピカレスク自叙伝」として発表したものがそれである。
 旧満州熱河省(現河北省の一部)灤平という小さな町での幼年時代の思い出の記である。短編はいきなり自転車との正面衝突から始まる。つまり4歳の私が、母(のちのばっぱさんである)に頼まれて、すぐ向かいの役所に、父に来た葉書を持っていくよう頼まれて、役所前の広場に駆け込んだ途端、役所の走り使いの満人の少年が乗った自転車にぶつかって気を失う場面である。
 いや確かに似たような事故に遭ったことは間違いない。その時の傷が今も眉間に残っている。しかしたとえば親父に来た葉書だとかピカピカの新車だったとか、など細部はすべてでっち上げたはずだ。「はずだ」というのは、この短編を書いて以後、そのころの記憶はすべてこの短編に集約されてしまい、もはや真相を辿り直すことは不可能になったからである。
 これを読んだばっぱさんからは、よくその頃のこと覚えていたこと、などと感心されたが、先に言ったようにほとんどが実はでっちあげなのだ。これと似たようなことを、安岡章太郎さんが名作『花祭』に関して言っておられたと思う。要するに記憶はある意味で作られるということだろう。さらに言えば、歴史もまたかなりの部分が「作られる」ということだ。
 しかしもちろん、このことは、たとえば「新しい歴史教科書をつくる会」などのように、自分たちの都合の良いように歴史を「改竄する」こととは違う。もともと人間の記憶などというものは実にあやふやなもの、不確かなものということである。
 などと言わずもがなの韜晦戦法で肝心の答を伸ばし延ばししてきたが、もうごまかしは利かない。さっそくクエスチョンに答えよう。

  1. あなたの人生で最初の記憶にある映像(イメージ)または音は何ですか?

     突然眼前に迫ったキラキラした自転車の車体、そして耳障りな自転車の急ブレーキの音。つまり幼年時代に遭った自転車事故の瞬間の記憶。もしかしてそれ以前の記憶はすべて、その事故で消されてしまったのかも知れません。

  2. その映像または音を思い出せる限り詳しく描写してくださいませんか。

     その事故で記憶を失ったので、なんとか記憶をたぐり寄せようとして次のようなことをします。

     俺は眼をつぶって、しきりに記憶の糸をたぐりよせようとした。朝御飯の後、裏のねぎ畑で紋白蝶を追いまわしていたら、勝手口からおふくろが顔を出して俺を呼んだ。なにかくれるのかと思って飛んでいったら、おやじに今来た葉書を持って行け、と言う。よっぽど、いやーだよ、と言って逃げ出そうと思ったが、継母なのでそれでぐれているなんて思われるのも癪だから、嫌々言いつけに従うことにした。それで葉書をひったくるようにして受取ると、葦駄天走りに走りだした。
     「勘吉! 落とすんじやないよ!」
     うしろからおふくろのわめくのが聞こえたが、なーに、犬っ子じゃあるまいし、こんなもの落としてたまるか、といよいよスピードをあげた。おふくろはなにかにつけて兄の正一を引き合いに出して俺をけなすが、ただひとつだけ褒めてくれることがある。俺の走りっぷりがなかなかいいと言うのだ。へん、家のまわりをちょっと走っただけで、そんなこと分かるもんかい。小っちゃい時サラブレッドみたいでも、大きくなり、駄馬になる例だってあるのである。だが、そうは言っても、このおふくろの言葉は大いに利いたらしい。その証拠には、せいぜいいい恰好をして走ろうとしているではないか。
     そんなことを考えながら役所前の広場に走りこんだら、向こうからボーイのピー公が最近買ったばかりの役所の自転車に乗って、フラフラこっちに走ってくる。奴さん練習のつもりらしい。まあ、なんて頼りない乗り方だろう。とこれはフル・スピードで走りながら考えたことである。
     いくらなんでも、俺の手前で曲ってくれるものとばかり思ったのである。それがかえってヨロヨロとこちらに向かってきた。あっ、という問もない。車体のメッキが、キラキラしながら飛び込んできた、と思った瞬間、正面衝突したらしい。あとは真暗々の闇である。

  3. その映像または音に関係する記録などをお持ちですか?

     41年前に書いた「ピカレスク自叙伝」という短編小説に書いてあります。

 

 これでは答にならないかな。でも何でもいいと言われたので、このままメールで送ってみるつもりです。皆さんも、ちょうどいい機会だから、ご自分の記憶の始まりを振り返ってみるのも面白いと思いますよ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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最初の記憶 への3件のフィードバック

  1. 貞房 のコメント:

    Sさんのご要望にお応えして、「週刊読書人」の記事をご紹介しようと思いますが、ブログに載せる方法が分からず、これまでのように管理人に頼むつもりです。しかし生憎、彼は引っ越し後でまだインターネットが繋がっていないそうで、いましばらくお待ちください。■さんがおっしゃるように、「素晴らしく格調の高い書評」ですので乞うご期待。

  2. いえねこ のコメント:

    こんにちは。
    私もお願いの記事を紹介させていただきました。
    たくさん集まると良いですね。

    自転車正面衝突事件のその後どうなったのか?
    も知りたいところです。

  3. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    いえねこさん、記憶に残っている最初のイメージもしくは音についてのアンケートにご協力くださってありがとうございます。シシリアさんも喜ぶでしょう。ところで自転車事故の顛末ですが、このホームページの研究室にある富士貞房作品集の中に「ピカレスク自叙伝」がありますので、ネットで読むことができます。でもこうしてネットに書いていながら変ですが、私はどうも紙の上に印刷された字でなければ文学的感興が湧かないアナログ人間ですので、出来れば私家本で読んでいただければと思いますが、もちろんどちらでもお好きなように。

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