午後、何気なく点けた WOWOW ですごい映画 (『天地英雄』) をやっていた。舞台は西域、時代は唐。話の筋はつかめぬまま、しかし迫力ある映像に引き付けられた。最近テレビなどめったに見ない、と言うより興味を持続できない妻さえ、とうとう最後まで見てしまったほどである。主演の二人の一方は、確か『赤いコーリャン』に出ていた名優(チャン・ウェン)だが、もう一方の、中井貴一をずっと男性的にした実にいい男、と思ってたら、なんなんなんと貴一つぁんその人でねえの! 遣唐使の役らしいが、こんなかっこいい遣唐使いたはずもない、いやいたかも。ともかく事前に知ってたら、録画したのに、残念!
映画の途中、瀋陽で新婚旅行中の息子と穎美が電話を掛けてきた。昨日、実家を出て瀋陽のホテルに泊まっている。西域と瀋陽では距離的には全く離れているが、映画の残像のせいか、なんだか息子たちの背後にゴビ砂漠や真っ青な空が広がっているような気がした。
ところで昨日の続きだが、1997年の杭州大学国際シンポジウムの記録『東洋的環境思想の現代的意義』をぱらぱらと見ていったら、たちまち安藤昌益や二宮尊徳の名前にぶつかる。そこで幻想というか妄想に火がつく。
天保四年に一家して八戸を出奔して磐城の国へたどり着いた母方の先祖安藤庄八は、やはり安藤昌益の血筋に連なっているかも。祖父幾太郎の系譜図によれば、「安藤姓を名乗ったのハ磐城平の藩主安藤姓を取った」から、というが、それはいかにも不自然である。天保のころはまだ昌益の名は忌むべきものとされていたゆえの韜晦ではないのか。それになぜ八戸を去らねばならなかったのかが謎である。実は今朝、ネットで八戸市史編纂室のホームページを見つけ、庄八が後にしたという川内村について問い合わせてみたのである。
すると午後、さっそく返事があった。「ご先祖が住んでいた《川内》という地名は八戸にはないようです。青森県の中に川内町という町がありました(現在はむつ市)が、八戸とは少し距離があります。」ほら見てご覧、たちまち庄八さんの足跡が消え始めたではないか。
でも尊徳さんはわが町と深い関係にある。つまり尊徳の未亡人なみと嫡子尊行の一家は明治元年、現在の原町市石神に移住、また尊徳の長女ふみの夫で後継者の富田高慶は相馬藩士なのだ。だからどうした、という話ではないが。(明日また続けるかも)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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