贅沢な時間

午後遅く、美子の昼寝の時間を利用して百円ショップに出かけた。美子と私用にそれぞれ蓋付きの茶飲み茶碗を買うためだ。二階にある小さな茶箪笥をまだ運び下ろしていないので、飲みかけのお茶など埃を被るままになるからだ。だが適当なものが見つからず、結局は少し大きめで蓋付きだというだけの理由で、それぞれイチゴとウサギ模様のピンクの茶碗にした。ウサギは私の干支。愛が欲しがるかも知れないが。
 そんな小さな買い物以外、ずっと家に閉じこもっていたのだが、逼塞感はまるでない実に伸びやかで贅沢な時間を過ごした、と言えるだろう。つまり古いカセット・テープを流したり、スペイン語版二巻本の『アルベール・カミユ集』に収録されていた『追放と王国』を読むなど、実に世界に大きく開かれた(?)時間を過ごせたからだ。
 こんな田舎の、こんな陋屋に暮らしながら、たとえば流れてくる音楽はチャイコフスキーの『序曲1812年』(演奏はE・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル)である。ロシアに迫ってくるナポレオンの大軍と、それを迎え撃つロシア軍の…いや詳しい歴史は良くは知らないし、それがトルストイの『戦争と平和』と同じ時のものなのかさえも知らない。ただ薄ら寒い冬陽の差す中、庭の枯葉のあいだをかさこそ音を立てながら吹き抜けていく風の音を聞きながら、十九世紀初頭のロシアの戦場に立つこともできるし、アラブ人の好奇の視線に囲まれながら埃まみれのバス旅をすることもできるということだ。
 チャイコフスキーの後はラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番ハ短調』(ピアノ、リヒテル、ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団)。するととつぜん一人の男の顔が浮かんできた。そうヴィットリオ・ガスマン。あれは何という映画だったろう? ラフマニノフともう一曲、そう、あれもチャイコフスキーの曲だった。さっそくヤフーを検索する。すると出ていた、1954年のアメリカ映画『ラプソディー』である。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲とラフマニノフのピアノ協奏曲の二つが実に効果的に使われていた。主演はあのエリザベス・テイラーだったようだが、リズには悪いがその記憶は残っていない。で、ガスマンはバイオリニスト、でもラフマニノフのピアノ曲がなぜ? 筋を見てその理由が分かった。不正確な記憶ではなく、ここはアリシネマの説明をそのまま引用しよう。

 「[リズ演じる] ルイーズは最初、父の反対を振り切って、チューリッヒの音楽院に学ぶ若きバイオリニスト、ポール(V・ガスマン)を慕ってかの地に向かう。が、コンサート・ソリストとして将来有望の彼は、練習にうるさく付きまとう彼女を疎んじているうちに、他の女との火遊びを目撃され、一旦は別れる。彼女の下宿の上階に住むGIあがりのピアニスト志望ジェイムズ(J・エリクソン)は彼女に横恋慕していたが、ポールと破局を迎えた彼女と愛なき結婚をする。すべて納得づくの関係もジェイムズには辛すぎて、彼は酒に溺れ、彼女のもとを去ろうとするが、彼を一流のピアニストに育ててポールを見返す手もある、という父の言に従い、ルイーズは彼に献身的に尽くし成功に導き、再びポールの気を引くことが叶う。しかし、クライマックスのジェイムズの熱演を聴くうち、彼女は彼への本当の愛情に目覚め、その胸に飛び込んでいく。」

 なんとも絵に描いたようなメロドラマだが、二つの名曲は、田舎の中学生(あるいは高一?)にも深く記憶に刻まれていたようだ。
 ところでガスマンだが、1956年の『戦争と平和』にも出ていたらしいが、私は見ていない。しかし死の二年前(1998年)に『星降る夜のリストランテ』にも出ていたそうだ。これは見たし、DVDにも録画しているが、登場人物の一人が彼だったとは気づかなかった。どこか気になる老人がいたが、もしかして彼? そのうち確かめてみよう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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贅沢な時間 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     「贅沢な時間」を読んでいて、『モノディアロゴスⅢ』の中の「ある夢想」に書かれてあった先生の夢を思い出しました。「この町に住む子供たちのために、人生論や進路指導のようなものすべてを総合したガイドブックを書きたい」。人生には迷いや不安が付き物ですが、古典や自叙伝の類を読んでいると感じるんですが、実際に実生活と隔たりが大きくあまり役立たないように思うんです。自叙伝も美化された虚飾のものも多いんじゃないでしょうか。先生が培われた教養を駆使して実生活をありのままに語り、そこで感じ、考えたことを巧みな文章力と表現力で書かれた「モノディアロゴス」は人生の正路を歩むための正に「大人のガイドブック」だと思います。

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