中国語版読者の皆様へ

今月末に北京で催されるブック・フェアに間に合わせるため、『原発禍を生きる』の中国語版の出版が急ピッチで進められることになり、私も読者宛てのメッセージを書くことになった。以下のものがその原文である。


中国語版の読者の皆様へ

 かつて幼年期から少年期にかけての一時期、私は潜在的に(?)あるいは精神的に中国人であった。今は教育上よろしくないからか「お前は橋の下で拾われた」とか「もらい子」などと子供をからかう風習は無くなったが、昔はときどきそんなことがあり、私も何年間か本気で自分を「中国人のもらい子」だと信じていた時期があったのだ。
 私の家族は1941年から敗戦までの4年間、旧満州(正確には偽満州帝国と言うべきだろうが)の熱河省灤平に住んでいた。父はそこの一下級官吏であった。しかし今年の正月に避難先の青森県十和田市で99歳で亡くなった母の話では、日本人より中国人の友が多かった父は、役所の宴会などがある度に「日本人はすべて悔い改めて出直すべきだ」と悲憤慷慨していたそうだ。そんな僻地の下っ端役人の言葉などだれも問題視すらしなかったが。
 その父も敗戦一年前に結核に罹り、薬も医者もないまま無念の死を遂げた。遺族は敗戦のどさくさの中で承徳の寺に遺骨を預けてきたが、風の噂では文化大革命の時にその遺骨も四散したらしい。しかし中国への渡航が自由になってからも、母も遺族も敢えて遺骨を探しに行こうとは考えなかった。愛する中国の土になることは、父の本望であったはずだと信じたからである。
 しかし私は、34歳の若さで死んだ父の無念を、その倍もの馬齢を重ねた頃から、改めて身に沁みて感じるようになった。ちょうどその頃、予想もしなかった偶然が重なって息子に中国人の妻を迎えたこともその想いをさらに切実なものにした。つまり私には、その出会いが亡き父の取り計らいに思えてならなかったからだ。
 すでにいろんな機会に書いてきたことだが、もしも日本がアメリカやブラジルなどへの移民のように合法的かつ人道的な移民政策をとっていたなら、私などはいまごろ日系中国人であったはず。そして中国を母国とする嫁、さらには中国を第二の祖国とする孫を得た今、私たち夫婦にとっていかに中国がよりいっそう大事な国となったか、お分かりいただけるであろう。
 さてそんな私の家族に昨年三月、大地震と、それよりもはるかに恐ろしい原発事故が見舞った。本書はそれ以前よりネットで発信していたブログに、その大災厄以降の日々を綴ったものの一部をまとめたものである。お読みいただければすぐお分かりのように、ここには放射能とか原発に関する専門的な記述はいっさいない。もちろん事故以前から、原発に対しては断固反対の立場をとっていたが、かと言ってそれについて調べようとは一切考えていなかったし、事故が起こった今になっても、放射能や原発について詳しく知ろうなどとは金輪際思ってもいない。
 要するに普通の人間の普通の感覚として、原発についての安全神話など端からまやかしでありインチキであると確信しているからだ。つまり放射能は明らかに反自然のもの統御不可能なものであり、その廃棄物の安全性もいっさい保障されていないのは誰の目にも明らかだからである。廃棄物を地中深く埋めれば安全などと考える人間の頭自体が狂っているとしか思えないのだ。
 そんな素人なりの考えやら怒りを本書の中で存分に語ったつもりなので、皆様にもぜひ読んでいただきたい。今さら言うまでもなく、私の考えは政治的イデオロギーでもなければ宗教的な信念・信仰からのものですらない。私のようにごくごく普通の人間が、それでなくとも克服すべき多くの課題を抱えた人類、とりわけこれからこの因果な世界に生きていかなければならない子供たち若い世代に、負の遺産だけは残したくないという切実な願い以外の何物でもないことを理解していただきたい。
 幼いときに体感したあの広大な中国の風土、その上に広がるさらに広大無辺の蒼穹をいま一度見てみたいと願いながらも、認知症を患う妻の介護のためにそれも諦めている。しかしそんな私にとって、今回の中国語版の出版は一種の里帰りであり、息子の嫁を介して繋がりができた中国の親戚たちへの改めての挨拶回りの意味を持つわけである。
 そして中国と日本があらゆる障害を乗り越えて真に揺るぎない関係になることを、息子たちの世代に、さらには将来両国友好の懸橋になってほしいとの願いこめて命名した孫娘・愛の世代に託したいと強く願っている。そのためになるならば、いま耐えている原発禍のあるあゆる不如意も苦しみもすべて意味ある貴重な捨石になると信じて疑わない。
 最後に拙著中国語版を出版するために苦労をいとわず努力してくださった香港三聯書店・李安女史・寧礎鋒氏に対して感謝の意を表します。また今回の中国語版のきっかけを作ってくださった札幌在住の若松雅迪氏、そしてそれを寛大にも引き受けて中国語への翻訳を敢行なさった李建華・楊晶ご夫妻へ深甚なる謝意を表するとともに、この場を借りて中国語版読者の皆様のご健康とご活躍を心から願いながら、この拙いご挨拶を終わらせていただきます。


もう一つの放射能禍・原爆の広島投下記念日を三日後に控えて


佐々木 孝

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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中国語版読者の皆様へ への2件のフィードバック

  1. 佐々木 博 のコメント:

     『原発禍を生きる』の中国語版が出版されるとのこと、心からよかったねと言いたいです。
    特に、この「中国語版読者の皆さんへ」を読んで、この本がまさに奇しき神の計らいによって出版されたことに感動しています。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉3.1)をお祝の言葉として贈ります。

  2. 阿部修義 のコメント:

     先生の本をいろいろ拝読して感じたことは、先生はご自身と繋がりのある全てのものに対して常に愛情を持って真摯な姿勢で最善の努力を払われて来られたと思います。それは先生の本を読んだ人は誰でも感じることだと思います。人生には人や物との出会いがあり、場合によっては今回のような天災や事故に遭遇することもあります。

     机上のメモ用紙に「物事に真実性を与えるのは、知性ではなく意志なのだ」と私が走り書きしたものがありました。先生の本を読んでいて感じるものがあり、メモしたように思いますが、どの本のどこに書いてあったか忘れてしまいました。しかし、どこに書いてあるかは問題ではないと思い調べることをやめました。

     今回の中国語版『原発禍を生きる』を出されることは非常に意味があり、価値があると思います。この本には先生と関わった一つ一つの物事に対する先生の意志が感じられます。時代に流されてしまいがちな人々の心は全世界共通の課題ですが「物事に真実性を与えるのは、知性ではなく意志なのだ」ということをこの本を読めば自ずと感じると思います。そして時代を変えていく唯一のものは人々の意志にかかっていると改めて『原発禍を生きる』を読んで感じました。 

     

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