今年度のノーベル文学賞は中国の莫言(モー・イェン)氏に決まった。授賞理由は「幻覚を伴ったリアリズムによって、民話、歴史、現代を融合させた」ということらしい。莫言はペンネームで本名は管謨業(コワン・モーイエ)。莫言の意味は「言う莫(なか)れ」。無駄口を叩くな、と自らを戒めたのであろうか(モー・イェン=もう言えん、これ親爺ギャグ、でも覚えやすい)。下馬評では村上春樹氏が有利ということだったが、蓋を開けてみれば莫言氏だった。彼と親しい大江健三郎氏は、次にアジアから受賞するのは莫言氏だろう、と言っていたそうだが見事予想が当たったことになる。
しかしノーベル賞に限らず他の文学賞が話題になるときにも思うことだが、成果がはっきり評価できる自然科学の領域ならいざ知らず、こと文学に果して優劣がつけられるものだろうか、という根本的な疑問がある。たとえばアジアの作家の場合には英語などへの翻訳が条件になるわけだから、評価の基準がさらに怪しくなってくる。とりわけ日中間がぎくしゃくしているこの時期に、たまたま日中二人の作家が争う形になってしまって、政治がらみと勘ぐられはしまいか、授ける側もいろいろ気を使ったに違いない。
ま、それはそれとして、今回の莫言氏の受賞は妥当な線ではないか、と思う。実は競り合っていた日中二人の作家の作品はあまり良く読んでいないのでいい加減なことは言えないが、少なくとも読んだ限りの範囲で言うなら、私も莫言氏に軍配をあげたい。受賞理由にもあったが、莫言氏の作品に漲る中国農民の底辺からのエネルギーには惹かれるものがあるからである。ただし正直に言うと代表作『赤い高粱』も短編『至福のとき』も原作よりも先に張芸謀(チャン・イーモウ)監督が映画化したものを観たわけで、特に前者の強烈な色彩が本を読むときにも強く影響したかも知れない。ちなみに『赤い高粱』(映画の日本語タイトルは『紅いコーリャン』)は、1988年のベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞している。ともあれ莫言氏は1955年生まれだからまだ57歳の若さである。これからまだまだ活躍が期待される。
ところで12日付けの産経新聞に拠ると、石原知事は12日の定例会見で、莫言氏がノーベル文学賞を受賞したことについて、「(莫言氏の作品は)よく読んだことはない」が、 「貧しい農民を描くことで、政権への揶揄というか、間接的な批判を書いている」と述べ、これが受賞理由ではないかとの見方を示したらしい。
また、受賞が有力視されていた村上春樹氏の作品については 「無国籍、無人格、無個性というか、世界に蔓延している若者の風潮、本質的な共通項を捉えているから人気がある」と評したという。
いつもは人騒がせな発言の多い知事にしては、自身も小説家であることを想い出したのか、実にまっとうな見解を述べている。
授賞を逸した村上氏に追い討ちをかけるようで申し訳ないが、二年ほど前、このブログで私は次のような発言をしている。村上氏もまだ63歳である。私から見ればまだ若い(いや実際!)。ノーベル賞のことなど気にせず(もしかすると三島由紀夫は気にしすぎたかも)これからもいい作品を書いてもらいたい(なーんて偉そうに!)。私の駄文など読むはずもないが、ともかくそのままコピーする。
地獄の辺土(リンボ)
2010年10 月1 日
今日こそなんとか『キッチン』を探そうと思いながら、ネット古本屋から送られてきたばかりの『ノルウェイの森』を手に取ってしまった。運の尽き、なんてこんな場合は言わないのか。ともかく上巻はまっ赤、下巻は緑、の装丁が気になる。さっそくカヴァーを剥ぎ、上巻の裏表紙にカッターを入れて切り落とす。次に下巻のおもて表紙(というのかな?)も同じく切り落とす。二冊を合わせて背のところにG17速乾強力ボンドをつけ、あらかじめ用意していた細長い布を背にかぶせる。つまり背だけ布で、あとは元のままに残したのだ。
そしてずしりと重い『ノルウェイの森』一巻本を読み始める。第一章を読み、第二章へと進む。昨夜思いつきで言ったこと(※)が、当たらずと雖(いえど)も遠からぬことを確認する。そして死んだ恋人のことを思い出す主人公自身が意味深長な言葉を使っている箇所に出くわす。「僕の体の中に記憶の辺土(リンボ)とでも呼ぶべき暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいか」
リンボ(limbo)とは、洗礼を受けずに死んだ幼児などの霊魂が住むという場所を言う。地獄に落ちるほどの罪を犯さず、さりとて天国に行けるほどの善徳を積んでいない者がそこで罪を償う「煉獄」とは違う。リンボに行った魂がいつ救われるのか、そのあたりのことは良くは知らないけれど、いずれにせよキリスト教神学が苦し紛れに(?)設定した仮想の場所である。これまた良くは知らないけれど、仏教ではたぶん水子などは供養することによって極楽浄土に行けると思うが、リンボの幼い魂たちはどうなるのか。
ともかく村上春樹の世界の住人たちについて、どこかで、スマートである、などといった覚えがあるが、不思議な優しさに満ちている。私にはそれが、まるでリンボに住む魂だからこその優しさに思えるのだ。あるいは一時期よく使われた「モラトリアム人間」のように見える。つまりアイデンティティ<自我同一性>の確立を先送りにする心理的猶予期間の人間に。そんな村上文学評はだれも言わないかも知れないが、私には読むたびにそう感じるのである。もちろんこの評語は、必ずしも否定的な意味合いのみで使っているのではない。彼の文学が国籍や文化の違いを飛び越えて、世界中の多くの若者たちから強く支持されている理由の一端は、以上のことと無関係ではないと思っている。つまり人間のもっとも繊細でやわらかな部分での共感を呼ぶからではなかろうか。
いま話題になっている彼の最新作『1Q84』にまで手を伸ばすことは今のところ考えていないが、『羊をめぐる冒険』、『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥のクロニクル』そして『海辺のカフカ』と、いつの間にか彼の代表作が手元にある。『羊をめぐる冒険』以外は、文字通りの飛ばし読みだから、ゆっくり読んだらまたその印象が変わるかも知れない。さてじっくり読み直そうか、それとも…。
とここまで書いてきたが、本当は、『ノルウェイの森』の第二章に出てくる陸軍中野学校にまつわる私自身の思い出を書こうと思っていたのに、ついまた、昨日の話の続きを書いてしまった。それは別の機会にしよう。
というわけで、本当は今日から締め切りのある仕事を始めるはずだったが、いっさい手をつけないまま一日が過ぎてしまった。これはもう昔からの癖みたいなもので、宿題とか原稿書きとか、ともかく締め切りのあるものを前にすると、それとはまったく関係のないことが無性にしたくなってしまうのである。どうも死ぬまで直らないらしい。
※前日、こんなことを書いていた。
実は今日、よしもとばななを読む前に、村上の『海辺のカフカ』を、それこそぱらぱらと読んでみたのである。そして新しい事実にぶつかった。つまりかなり際どい性描写がところどころにあることだ。
だがいずれもさらりと書かれている。つまりまるで静物画のように、淡々と描かれている。エロ本のような、扇情的な書き方がされていないのだ。あゝこれも時代かなー、とは思う。実際に性交の場面などが描かれたりしているのだが、矛盾した言い方になるが、まるでセックスレスの男女の絡み合いみたいな感じがするのだ。
よしもとばななや村上春樹のファンに、分かりもしないで勝手なこと言うな、と叱られそうだが、両者に共通するいくつかの特徴がある。一つは、良い意味でも悪い意味でも、要するにツルンとした感触の文体で書かれていること、そしてとうぜん誤解される評語ではあるが、ともにアモラルな世界を描いているということである。インモラルな世界なら、ある場合には嫌悪しながら、またある場合にはどうしようもなく惹かれる世界だが、アモラルな世界はどこにもつかみどころが無い、ツルンとした世界なのだ。
なに?村上評が知事のと似ている? 何からなにまで違うわけでもないべさ。でもねえ、似てるけどよく読んでみて、かなり射程距離というか深度が違うよ、説明は難しいけど。
先生の村上文学評を読んでいて「リンボに住む魂だからこその優しさ」という言葉が印象に残りました。先生の書かれた本の中でいつも気になっている言葉があります。「魂の兵役」。ヒルティは優れた文学、芸術作品は全て情熱ではなく苦悩から生まれるものだと言っていたのを覚えています。
ノーベル文学賞の基準が何かとは私には全くわかりませんが、文学作品に重みを加えるものは、先生が言われている「魂の兵役」を立派に耐え忍んで来たかが重要だと私は思います。そして、先生が石原都知事との違いを「説明は難しいけど」と言われた言葉の奥にそういう意味合いがあるように私は感じました。