原町こそわが命

そうした忠魂碑や特攻隊員の石碑と並んで渡辺敏氏の記念碑が立っている。旧原町市が町から市へと移行する時期をはさんで20年もの長いあいだ町長・市長を務めた人である。聖徳太子はもちろんだが他のどの被顕彰者にも面識がないが、この渡辺氏だけは生前の姿を今でもぼんやり覚えている。
 家にもおそらく自費出版と思われる彼の自伝がある。『原町こそわが命』(昭和58、愛原印刷所、非売品)という122ページほどの簡素な装丁の本である。いつもダブルの背広を着たがっしりした体躯の人という印象が強いが、表紙のにこやかな笑顔はタレントさんまの元運転手で後に画家となったジミー大西に似ているなんて言えば、彼の心酔者に叱られるかも知れない。
 心酔者とまでは行かないが、政治家などには点の辛いわが家のバッパさんには受けのよかった市長さんである。「原町こそわが命」という言葉も、気負いもてらいもなくそう言えるだけの自負が自他共に認められる境地に立っていたからであろう。最近では20年などという長期政権は認められないであろうが、彼のような存在があり得た時代というのもあながち否定しがたい気もする。
 いや軽はずみなことは言えないが、現在では大は国家から小は一家の長にいたるまで、すべてにわたって個性が希薄な時代になっていることの原因の一つに、いたずらに公平さを求める風潮を挙げてもいいのではなかろうか、と思われないでもないからである(とは回りくどい言い方であるが)。
 例えば一昔前までは、名物校長、名物町長などけっこういたものである。確かに長期政権の弊害はそれなりにあるであろうが、しかしどこを切っても金太郎飴のように没個性の姿形しか見えてこない学校や町も困ったものである。本屋などもむかしは小さな本屋さんなりに、思いがけなく珍しい本が置いてあるなど、店主の好みや個性が匂う本屋さんがあったものだが、今ではコンビニなみに商品の回転がやたら速くて、ぜんぜん魅力的な場所ではなくなった。
 さてその『原町こそわが命』には自画自賛ともとれる27ほどの業績が列挙されている。たとえば商工会議所、柔道場(寄付)、信用組合、体育館、養老院、相馬ガス、横川ダム建設、東北電力発電所、老人福祉センター、弓道場の創設や誘致など、ほぼ現在の市の骨格部分を作り上げた感じだ。強い個性の指導者が存分に働ける余地があるのと、どんぐりの背比べのようにそれほど個性の強くない者たちが互いに牽制し合ったり非難し合ったりして、結局は平均点以下の無難な行政が続くのとでは、どちらがいいか判断のむつかしいところであろう。
 ただ学校や役場などで、公平公正を期するあまりかどうかは分からぬが、年度ごとに大幅な人事異動が行われ、その度にせっかくのものがゼロ地点まで後戻りするのはいかがなものか(と政治家口調で言ってみる)。海辺の砂遊びのように、それこそ砂上の楼閣作りになってはいないか。
 そんなことを考えながら、夜の森公園散歩コースを歩いている。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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