以前は一巻に二年分くらい優に入っていたが、ここ数年、半年分で一巻になる。この『Ⅶ』も今年初めから四月初めまで、約半年分である。書き始めのころは千字を超えてはならなかったので、アップ直前は省略したり削ったりの剪定作業で大慌てしたものだ。おかげで文章の書き方が鍛えられた。ところがいつごろからか、そうした制限が無くなり、ある時は野放図に長くしたりで、たぶん文章にしまりが無くなってきたかも知れない(かも、じゃなくて、そうなの)。その代わり、字数を気にせず自由に書けるから、どう書こうか迷うような内容のことでも何本か補助線を引くような感じで次第に対象に近づけるような気がする(錯覚かもしれない)。
なにはともあれ、「モノディアロゴス」を始めてちょうど十年。いつかも、このままⅧ、Ⅸ…と続けていくのか、それともこの形式を止めて、別の形式、たとえば大きなテーマで一冊の本にするつもりで書いていくかどうか考えたことがあった。でもその後本気で検討しないまま今日になってしまった。團伊玖磨の「パイプのけむり」のように、もう少し(ですかー?)上品で優雅な方に、あるはいサルトルの「シチュアシオン」とかカミユの「カイエ」のようにもう少し(ですかー?)哲学的なものに方向転換しようか。いやいやそれはどちらもムリ無理(なんでそんな例をもってくるの?)。
たしか前回考えたときも、ここまで来たらいっそのことこのまま死ぬまで続けよか、なんて言ったかも知れない。このあたり、まるで壊れたレコード盤のように同じことを繰り返している。でも偉い人を担ぎ出したついでだから言うが、本当に書きたい内容とか方向性からすれば、これまで通りやっぱウナムーノさんを最後まで見習いたいし、さらに付け加えるならば、彼のいわば僚友であり、私からすれば両雄でもあるアントニオ・マチャードの『フアン・デ・マイレーナ』に倣うことにしようか。
唐突に『フアン・デ・マイレーナ』など持ち出したが、実はこの本、ここ十年近く、まるで聖書のように(といってこれまでだってそんな風に聖書に親しんだことは無かったが)私の身近にあった。いま「身近にあった」と書いたが、そう、熟読したというわけではない。今も目の前に総革製の表紙を見せている。新書版でそれぞれ三〇〇ページほどの二巻本の自家製合本となって。これはマチャードの異名者の名がタイトルで、小説ともエッセイとも、あるいは日記ともつかぬ不思議な作品である。いつかしっかりご紹介しなければと思いつつ、未だに果たせないでいる。
つまりこのように中途半端なことを長々としゃべるように書く、というのが、ここ最近の傾向である。「あとがき」にもならない屁でもない文章。ああこの「屁でもない」という表現、方言かなと思って今辞書を見たらちゃんと載っていた。ねっ、直ぐまた屁でもないこと書き始めただろ。この辺で止めよう。
今年もいつの間にか十一月の半分まで来てしまった。今日は木曜、美子もデイ・サービスから帰ってきたところ。おかげさまで元気です、この私も。明日からいよいよこの『Ⅶ』の印刷製本を始めます。「先行予約」で誘ったのに、今のところAさん一人しか注文してません。こんなとき思い出すのは…そう小川国夫さんの『アポロンの島』の予約受付に島尾敏雄一人が応じた…またまた大物を例に出す…まっ、注文が無くても黙々と作りますがね。
十一月十五日記す
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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