どこかの男子高校生が部活の指導教員から体罰を受けたことを苦にして自殺した、という事件があったようだ。実はそのニュースを新聞紙面でしっかり読んだわけではなく、ただテレビ画面でざっと知っただけであるから、これから書くことはその事件についての論評でないことをあらかじめお断りしておく。つまりこの種の事件が繰り返し起こるたびに感じることを一般論として述べるだけである。
生徒一人の命が失われた事件だから誰もはっきり言わないようだが、実に後味の悪い事件である。というより、事件を機に巻き起こったいつもの周辺事態がなんとも嫌な、としか言いようのない思いを喚起する。周辺事態と言ったのは、たとえば事件後の学校とか教育委員会の姿勢である。もっと具体的に言うと、テレビカメラの放列を前にしての「責任者」たちのあの謝罪パフォーマンス。反省すべきことが多々あるのだから謝罪は当然だが、もういい加減あの謝罪パフォーマンスは止めたらどうか。産地偽装から入試問題のミスまで、その度にあのパフォーマンスが日本中で繰り返されるようになったのは、いったいいつの頃からか。取材陣ばかりかテレビ画面を見る観客(!)までが、責任者たちの深々と下げた頭のどれが一番先に上がるか、などと固唾を呑んで見守っている。要するに「見るに堪えない」光景である。
もしも謝ることがあるなら、謝るべき相手への心からなる謝罪の言葉を述べた後に、「しかるべき対応は今後とも真剣にさせていただきますが、とりあえず本日の会見はこれにて終わらせていただきます」とあのパフォーマンス抜きで切り上げたら、どうなる? おそらく全国から抗議の電話が殺到するであろう。あゝなんて道徳的な国民だこと! だから僻目かも知れないが、まあこの場は無難に頭を下げておきましょか、といった魂胆丸見えの仰々しいパフォーマンス。
今回の場合はどうであったかは知らないが、体罰を与える教師のことなど、これまでずっと校長以下誰もが知っていて黙認してきたことではなかったか。つまり我が校の○○部の好成績はあの先生のおかげ、少々のことは眼をつぶってましょ。要するに体罰に関しては、全教職員の「共犯」である場合がほとんど。
でも中には、体罰を与えたり、生徒を厳しく叱った教員の側にも同情すべき点がある場合もある。この点で印象的だったのは、『北の国から』の分校に都会から赴任してきた女先生(俳優の名前は忘れたが…あっ思い出した、りょうこ先生を演じた原田三枝子だ!)の場合である。つまりあの場合、生徒の自殺はまるで「当て付け」「意趣晴らし」としか思えないし、りょうこ先生が可哀相に思えた。自分の命を犠牲にした生徒について誰もそんなことを口に出しては言わないが、しかしだからこそ最高最大の仕返しになる。
生徒のことを思っての真剣な、ぎりぎりの体罰はありうると思うが、しかし問題を起こした教員には、体罰が常習化していた場合が多い。そして怖いのは、そうした体罰は次第にエスカレートしていくことだ。旧陸軍内務班での日常化していた体罰がそうであったように。 私が親なら、そんな教師は心からなる軽蔑に値すること、ましてやそんな教師の為に己の命を犠牲にするなど愚の骨頂だと子供に教え諭すだろう。事件の後、講堂に集められた生徒たちを前に、校長や教師はどんな訓示を垂れたのだろうか。一度聴いてみたい気がする。貞房先生ならこんなことを言うかも知れない。
「あってはならない悲しい事件が起こりました。こうした結末に至るかも知れないいくつもの兆候があったのに見てみぬふりをしてきた私・校長初め教職員全員、心から反省しています。我が校は運動部や文化部の活動では全国的に名を馳せた有名校です。それを誇りにしてきました。でもそんな好成績など、あなた方一人一人の命に比べれば、言葉は悪いですが屁みたいなものです。自分をもっと大事にしてください。先生といえども人間です、なんて逃げを打つ気は毛頭ありませんが、でも理不尽なことを言ったりしたりする人に対しては、相手が先生であろうと誰であろうと、自分が正しいと思ったことを堂々と主張する人間になってください。しかしあなた方は先生方を相手にするには実に弱い立場にあります。どうしても理解してもらえないときには、他の先生やこの校長の所に相談に来てください。それはけっして告げ口をすることではありません。この学校が単にものを覚えるだけではなく、人生に起こるいろんな難題を一緒に考えるための場になるためです。私がいつも言ってきたように、皆さん一人一人が自分の目で見、自分の頭で考え、そして何よりも自分の心で感じる人になるための学校でありたいからです……」
例の問題を起こした学校では、その運動部、バスケット部でしたっけ?、は活動を停止したというニュースが続いた。おいおい何を考えちょる? それじゃ生徒たちはますます萎縮し、教師たちはますます自信を失うのとちゃう? 指導教員を入れ替え、りょうこ先生みたいな(彼女バスケできるかな?)素敵な先生のもと、亡くなった生徒のためにも人心一新して明るい学校になるよう、それこそ教師・生徒一丸になって努力すべきじゃない?
それはそれとして、新聞やテレビの報道の仕方、何とかなりません? たとえばですな、例の謝罪パフォーマンスが始まるな、と思った瞬間、カメラをパンさせてですな、見るに堪えない場面を映さないなど。そんなテレビ局や取材班が一つでもあれば日本の報道機関にも希望が持てますけど、相も変わらず他社に負けじと、そら横一列にヨーイドン、あゝ救われねーっ!
精神的でも肉体的にでも、その痛みを受ける人の立場に立った自分でいたいと思います。いろいろな意味で想像力の欠如が今回の事件の根本的な問題だと私は思います。宮沢賢治の教師時代のエピソードを思い出しました。生徒が授業に集中できなければチョークを投げる先生が殆どの中、宮沢賢治はチョークを噛み砕いて自分の不甲斐なさを責めたそうです。賢治の詩が私たちに感動を齎すのは人間に対する想像力の豊かさから来るように思います。そして、先生の言われている「自分の心で感じる」とは、この想像力を磨くことだと思います。