澪標(みおつくし)

少し陽が翳り始めていたが百円ショップで買うものがあったので、いつものとおり昼寝をしている美子の寝顔を確かめてから車で出かけた。ついでに運動不足解消のために、すぐ側の下水処理場前の新田川河畔を散歩した。ここに来るといつも決まって頭に浮かぶことがある。つまりもしもこの静かな施設を仕事先にしていたら、どんな生活を送っていたろうか、という実に漠然とした物思いである。たぶん仕事仲間もごく限られており、仕事といっても、決められた時間、各所の計器類のチェックだけ、あとは帳簿の整理、業者との打ち合わせ、必要な機材の発注…異常事態など何年に一度あるかないかの実に単調極まりない業務、しかし市民生活にとっては欠かせない重要な仕事…
 ただそれだけの取りとめも無い想像であるが、しかしなにか大事なものを忘れていたのではないか、といった微かな、しかしどこか懐かしい喪失感。
 忘れ物をしたようなそこはかとない喪失感…それで思い出したわけではなく、時系列(?)からすればこちらの方が先なのだが。実は昨日、韓国のヒョン・ジニさんから、翻訳がいよいよ最後のあたりに近づいてきました、というメールがあり、自分でもそのあたりを読み直してみる気になった。そしてそのとき、不意に思い出したのは、私と在日の人たちとの関係を綴った文章が論創社版ではそっくり省略されていたことである。
 論創社版の時は、おそらく冗長だとの判断から編集者が削除したのだが、私自身もその判断をうべなった(と古い言葉を使うが)。つまり私にとっては大事な思い出だが、第三者にはそうは思えないだろうと考えたのだ。しかし朝鮮の人たち…そうだここではっきりさせておかなければならないことがある。それはチョウセンとかチョウセンジンという日本語には、過去の謂れの無い蔑視と差別の名残りがどうしても付きまとい、それを使うことに一瞬のためらい、後ろめたさを感じるということだ。
 日本人全部がそれらの言葉を何のためらいも逡巡もなく使える日が一日も早く来ますように!
 要するに、そんな私自身の内面史(朝鮮人や在日との関係史)にかかわる、それこそ漠然とした思い出を率直に披瀝したその部分を、今回の朝鮮語版には復活させた方がいいのでは、と思い始めたのである。具体的に言うと事故三ヵ月後の六月十九日の部分である。ネットにはそのまま残っているが、念のためここにコピーしてみる。


ディアスポラからあゝ上野駅まで

 先日ここでご報告したように、徐京植氏との初対面の、しかも互いに相手をほとんど知らないままに、つまり氏は例の新聞紙上の私たち親子三代の写真、私といえば氏が在日の作家である、というだけの知識しか持っていないのに、なぜ旧知の間柄同士のような対談に進むことができたのか。
 氏に宛てた最初のメールで、私は考えようによれば実に不遜というか失礼なことを言った。まるで父違いあるいは母違いの兄弟(他に異父兄弟とか異母兄弟という言葉や、もっと露骨な日本語があるが好かないのであえて)に会うような気持ちです、と。といって白状すれば、私はこれまで身の回りに在日の知人はいなかったし、在日の友人もいなかった。さらに言えば、在日の歴史について正確な知識もない。それなのに、在日に対して、なぜか親しい、懐かしいような感情を持ってきた。いや、少年の私が朝鮮人の集落に生きていたような感じさえ持ってきた。もちろん錯覚である。
 しかしたとえば少年時の貧しさ、疎外感、不条理なものへの怒り…それらはすべて在日の人たちと共有できると思えたのである。先ほど身の回りに在日の人はいなかった、と言ったが、これまで何回か擦れ違ったことはある。最初は、旧満州から引き揚げて北海道の帯広に住むようになったとき、まだ終戦後間もなく世情騒然としていたある時、町の朝鮮人たちが戦中のひどい扱いに抗議して、槍玉に上がった人たちを襲っている、という噂が立った。相手をリンチするときの彼らの戦法、つまり人差し指と中指をV字型にして、それで相手の眉間を狙うなどという細部までまことしやかに伝わってきた。実際にそんなことが行なわれたわけではなかったのに。
 次は、イエズス会という修道会に入り、広島で修練していたとき、その修練院の裏手の急峻な小道を降りた先に朝鮮人の集落があった。それはほとんどが掘っ立て小屋のような貧しい集落であった。バス停への近道としてその側を通ることがあったが、後にそのときのことを「午睡」という掌編(「修練者」の中の)にこんな風に書いている。
 「夢の中の鶏たちは、裏山の裾に点在する朝鮮人部落で飼われている鶏たちだった。そしてその家の一軒がわが家だった。そのわが家の縁側に坐ってだれかと激論していたはずだが内容は思い出せず、ただそのときの熱気だけがこめかみのあたりに残っているだけだ。家を捨てたはずなのに夢にまで見るとは、これは本物ではないなと反省しはじめたとき、今度こそ本当にベルが鳴った」。(「青銅時代」、第27号、1984年所収)
 次は五年間の修道生活から足を洗って(?)相馬に帰ることになったとき、以前そこの学生寮にいたときに知り合った教会のカテキスタ(志願者などに教理を教える人)のおばさんが、将来結婚する相手候補として在日の娘さんを紹介してくれたことがある。還俗したての私にはあまりぴんとこない話で、そのときは特に気に留めないで聞き流していたが、その後相馬に戻っていた私のところにそのカテキスタから、今度その娘さんが東京を去って郷里の青森に帰るが、途中原町駅で途中下車させるので、迎えて欲し
いと連絡があった。その日、次の列車(まだ電車ではなかった)までの時間、彼女を曇り空の殺風景な町の中を案内した。楚々としたもの静かな娘さんで好感は持ったが、結局その小一時間ばかりの淡い思い出しか残っていない。名前も彼女の住んでいる町のことも覚えていないので、もしかすると当たり障りのない話に終始したのだろうか。いま彼女も青森のどこかで孫たちに囲まれた幸福な生活を送っていると思いたい。
 最後は、定年前に辞めた大学で、或る年、朝鮮人の名前を持った女子学生が入ってきた。授業の際に教室で会うだけの接触しかなかったが、機会があれば話し合ってみたい、と思っているうちいつの間にか卒業してしまった(当時はまだ短大だったので)。
 以上が在日の人と擦れ違ったすべての過去である。

  いや、今回、徐氏とお会いしたときに感じたあの親密な感じは、そうした頼りない経験だけから生まれたものではなさそうだ。要するに私が現在置かれている状態が、どこか在日の人のそれと相通じるからではなかろうか。(以下省略) 」


からまでの部分が省略されたのである。

 唐突に徐京植さんをまるで父違い、あるいは母違いの兄弟のように思ったということの背景には以上のような個人史があったのである。私にとっては思い入れの強い大切な思い出だけれど、第三者には(今回は韓国の読者にも)大して意味のある述懐ではないかも知れない。だから今回も採択するかしないかの判断は、すべて翻訳者ヒョン・ジニさんにお任せしようと思っている。
 ただ未練がましいことを言うようだが、思い出の中の二つ、すなわち修練士時代に見た夢、そして原町駅の駅頭で別れたままの青森の少女のことは、私の在日朝鮮人観の原点とも言うべきものである。特に後者、つまり還俗して故郷に帰ったばかりの私が出会った青森の少女は(美子との出会いはその半年後である)、その後どのような人生を送ったのか、ときおりふと思うことがる。名前も帰省先の住所も聞かないまま別れた彼女のことは、正直言って、その顔立ちも姿も、すべて薄明の中に溶解してしまってはっきり思い出せないが、今ごろは孫たちに囲まれての幸福な人生であってほしいと心から願っているわけだ。
 人生に時おり訪れる分起点で幾筋にも分かれるそのうちの一つを、その都度偶然にか意思的にか選ぶことの連続が人生なのだが、新田川河畔の幻想にしろ、この少女との邂逅にしろ、思い出すたびに胸の内のどこかに微かな波動を伝えてよこす私の人生航路の澪標(みおつくし)であることは間違いない。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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