実はまだ例の郵便局宛ての書簡、あのままにしてます。なんだか嫌気がさしてきたからです。でもその後に起こった小さな事件(?)で、あの後を書き進めて、当初考えたように三つの郵便局に送ろうといま改めて思ってます。その小さな事件とは…昨日の午後のことです、前回ちょっと触れた或る企てというか謀(はかりごと)の重要な協力者になっていただけそうなマドリード在住のRさんに、その企てのいわば材料となる私の私家本8冊を航空便で送ろうとしたときのことです。いつもより値が張るはずなので、事前にネットで代金を調べました。いちばん安い航空便SALは、印刷物・書籍2,570グラムでは2,680円です。
局に行って、中身は本ですがこれをSALで送ってください、と窓口に出しました。するといつも親切な応対をしてくれるおにいちゃんが、パソコンを見て答えました、「えー、ちょうど5千円になります」。ええっ5千円、ちょっと待って下さい、確か家で調べたときは2,600円ぐらいだったはずですが。「えーっと2キロを越えると小荷物扱いになって、5千円、別の…で送ると6千円を超えます」。家で見てきたデータは見間違いだったのだろうか、と自信が無くなり、危うく5千円払いそうになりました。すると隣りのベテランの女性局員が、「それ印刷物ですか?」と聞いてきました。ええ、先ほども言ったように本です。そのときおにいちゃん自分の間違いに気がついたのでしょう。「あゝ印刷物ですか、それだと2,680円です」。おいおい冗談はよし子さん(古っ!)、なにか嫌味のひとつでも言おうかと思ったけど我慢。2,680円を払って局を出ましたが、じんわり怒り、いや怒りというより不思議な恐怖を覚え始めました。
いま流行の「アンゼン・アンシン」なんて、こちらがよほど注意してないと、いとも容易く消えてしまうという恐怖。事前に調べていったから良かったようなものの、もしそんな手立てが無いお年寄りなど、不審に思いながらも払わされてしまうという恐怖。そんなつもりは無かったといっても、これ立派なヤラズブッタクリでっせ。
以上、いつもの通り、異常に長―い前振りでした。本筋に戻ります。といって、取り止めのないお話ですから、どこから始めましょう。例の企てのことですよ。
そう、むかし故・小川国夫さんたちとやっていた『青銅時代』(おっと過去形じゃまずいです、第49号まで来たこの同人誌、第50号は発行場所を東京から南相馬に移して続刊するつもりです)の仲間の一人、自称詩人のことから始めましょうか。この女性、あるとき「だれか私の詩をスペイン語に訳してくれる人いないかしら。私の詩って、翻訳された方が詩として生きてくるのよ」とのたまいました。おいおいおい、それって他人のフンドシで相撲とるってことだぜ、と言いたいのを辛うじて我慢しました。あれっ、女性にフンドシはないか、それじゃ…アホらし、止めた。
で本題ですが、私の企ててることは、その自称詩人のやろうとしていたことと形は似てます。つまりその女性の詩に当たるものは私がこれまで書いてきたたくさんの文章だからです。専門分野での論文(めいたもの)もありますし、それこそ雑多な文章、中には詩(もどき)まであります。活字や電字になったものばかりでなく、書庫に眠っている青年時代のたくさんの日記まであります。ただ自分から言うのもなんですが、それらの文章、組み合わせたり入れ替えたり、時には蕎麦の場合のヤマイモのように適切な「つなぎ」を加えることによって、格段の風味を出す可能性のある文章群なのです。
たとえば先日、Rさんにこの企てのヒントになりそうだから読んでみて、と送った『ビ-ベスの妹』という短編があります。16世紀スペインの偉大なウマニスタ(人文主義者)ビーベスをネタに作った虚構です。そしてこの作品の中に出てくる私の発言草稿、つまりむかし国連大学(この大学、今どうなっているのでしょう、確か学長が武者小路なんとかがなり…それはともかく)でのパネル・ディスカッションで発表した短い「スペイン思想の中のサラマンカ」という文章と組み合わせると、スペイン語圏の読者をビックリさせるような、というかうまく騙せる不思議な作品に仕立て上げることができます。
この作品は、実はもう一人ぜひ企てに参画してもらいたいと思っているRさんにも読んでもらいたいと昨夜メールでお願いしたところ、彼からこんな内容の返事が来ました。すなわち彼は初めこの題名を「ビーナスの妹」と間違えたそうで、たぶんロリータみたいな美少女物語だろうと思った、と。嬉しいですね、つまりRさんは最近も学会でナボコフ論を発表するほナボコフにぞっこん参っている人で、ビーベスをビーナスと間違えたこの勘違い、実に文学的じゃないですか。もともと彼を拙著の翻訳者に懇望したのは、一昨年夏、原発事故の後、電車とバスを乗り継いで南相馬を訪ねてくれた彼が、東京に戻ってからくれたメールの日本語をパソコンから捜し出して読んだときです。何とセンスのある日本語を書く人だろう!、と感心したからでした。
それはともかく、私の言う企てとは、既にある材料をうまく利用して、三人で(つまりRさん、Rさん、そして私とで)協同して、スペイン語の作品を創り上げ(でっち上げ?)ること、そしてペン・ネーム富士貞房という謎の作家を世に送り出すというとてつもない企てなのです。富士貞房ってお前のことだろう、ですって? いやいや富士貞房なんて作家は、まだ誕生してません。確かにその名を作者にしたいくつかの書き物は存在しますが、それらはいわばまだ点線で辛うじてなぞられているだけで、しっかりした実線で存在する作家にはなっていないのです。
そしてご存知かも知れませんが、富士貞房というペン・ネームはローマ字書きにすると、スペイン語圏の読者にはピーンとくる或るカラクリが隠されています。つまりフジテイボウのジはスペイン語ではヒの発音になりますが、するとフヒテイボウ、フヒティーボ(fugitivo)つまり「逃亡者」を意味するんですわ。何からの? そうね、すべてからの、とりわけ真実からの。だってそうでしょ? どこかのキリスト教聖者が言ったように、真実はあまりにも強烈な光を発するので、人は敢えてそれを直視することはできない、と。つまり、その意味で言うと、この世に生きることは、どんなにしかめ面をして真面目くさっても、どこかウソ臭い。つまりウナムーノの言う「生の悲劇的感情」と裏腹、表裏一体の「喜劇的感情」に満ち溢れているわけですから※。
先ほど三人の協同作業と言いましたが、しかし正確に言うと、こうしてその作業の経過をこのブログで逐一報告していくつもりなので、これを読む皆さんもいわば共同謀議者、それが言い過ぎというなら、少なくとも一部始終を見守る観衆ですから、そう実に大掛かりで公正なハカリゴトというべきなのです。
じゃそうして出来上がった「作品」の著作権者はだれか、ということですが、この際、はっきり宣言します。そうして出来上がった「作品」の著作権者は、私・佐々木孝ではありません。では富士貞房? いや、そうではありません。だって富士貞房は言うなればこれから創り上げられていくものなのですから。では誰の? リライター(編集者兼翻訳者)のもの(そしてそれに発生する印税も)です。私個人は、もともと現今の行き過ぎた著作権という概念は好きくありません。だれかがもう言ったかも知れませんが、どんなに独創的な作家といえども、その書くものの大部分はこれまでの人類の厖大な知的遺産の一部引用だったり註であるに過ぎません。だから有名作家が、自分の作品の海賊版が出ているからケシカランと抗議しているのを聞いたりすると、何をおっしゃるウサギさん(これまた古っ)、他人の作品として盗作されたなら怒ってもいいけど、そうでないなら、自作が安い値段でたくさんの人に読んでもらえること、むしろ密かに喜んでいいんじゃない?と思ったりします。おおっぴらにそう喜んじゃ、ちょっとまずいかも知れませんがね。これはタダなのに自作を一向に読んでもらえない人間のヒガミかも知れませんけど。
それはともかく先を、といっても疲れてきたのでそろそろ終わりにしますが、もうひとつ面白い作品になる材料を挙げましょうか。例の「ケセランパサラン」伝説です。このスペイン語かも知れない不思議な言葉をネタにして、寓話・民話仕立ての奇妙な作品を創ることができます。材料? それの基本的な材料は、そして未完成の名曲の歌詞も既に随所に発表してきましたよ。
あっ、いま気がついたんですが、Rさんは一応紹介しましたが、Rさんについてはまだでした。簡単に、それも彼女の業績だけ書きます。彼女はマドリード在住の日本人女性で、これまで三島由紀夫の『青の時代』と『仮面の告白』をスペイン人と共訳で大手出版社から、そして今回拙著のRさん訳を出してくれる出版社からは徳富蘆花の『不如帰』と永井荷風の『濹東綺譚』(わおーっ)を単独訳で、そして現在、浜尾四郎の探偵小説を翻訳中というすごい人なのです。
だからこのお二人と出会い、心許せる友人になった今、私が前述のような壮大な夢を見るようになったのは、ひとつも不思議じゃないでしょう? そんなことを言えば、スペイン文化の底を流れる「人生は夢」(カルデロンの有名な作品があります)という意味で、私だけでなくだれもが夢を見る権利が、いや能力がもともとあるんだ、とは思いません? 確かに目の前の人生は、たとえば原発事故、キナ臭い政治、真のアンゼン・アンシンにはほど遠い光景が広がってますよ。でもだからこそ自分を鼓舞するそれぞれの夢を思い描き、せめてもそれに向かって自分や愛する人たちのために進んでいくべきだとは思いませんか?
ここまで長―く引っ張って来てすみません。でも本当のことを言うと、午前中ここまで書いた文章、キー操作を間違えた、と言うよりこのごろ老朽化したパソコンのせいで、一瞬のうちに消してしまったのです。一時は頭が真っ白になりました。でも自分を奮い立たせて、頴美が作ってくれた美味しい昼食を食べ終えたあと、パソコンに再び向かってここまで思い出しながら書いてきました。もちろん一字一句は思い出せるはずもなく、時には思いがけない文章が出てくるなどして(生の喜劇的感情や人生は夢などのことは二回目に付け加えたもの)まったくの無駄ではありませんでした。生きるってことには、このように無駄なものはひとつも無いんです。
それから最後に付け足し。文中触れた『ビーベスの妹』や「スペイン思想の中のサラマンカ」は、それぞれ呑空庵刊(それどこの出版社と聞かれる? 何をおっしゃるシタジラしい)の私家本の『切り通しの向こう側』と『飛翔と沈潜――ウナムーノ論集成』に収録されてます。読みたい方はご注文ください。ともかくそれだけ読みたい方は、大サービス、抜き刷りをメール添付で無料でお送りしますので、ご遠慮なく。ではこれで本当に今日は最後にします。
※『切り通しの向こう側』に収録されている「モノダイアローグ」の中で、作中人物のこんな対話があった。
――しかしそうは言うけどね、人間本当に言いたいことは一言ですんじゃうぜ。あの壮大な体系を築いたへーゲルだって、「理性的なるものはすべて現実的であり、現実的なるものはすべて理性的である」と言いたいばっかりに、あの膨大な量の作品を書いたんだし。
――おや大きく出たね。
――しかし本当のことだぜ。「私とは何か」を含めて、すべてのことの真実が明かされないのは、われわれにとって不幸でもあるが、また幸いでもある。真理を見た者は盲になるほど、真理というやつは強烈なものさ。真理を見たいがための悪戦苦闘という面から見たら、生きることは悲劇的だが、真理を見ることを一寸刻みに延ばしているという面から見れば、生は喜劇的である。
――またウナムーノ。
――そう露骨にいやな顔をしなさんな。確かに、『生の悲劇的感情』のウナムーノは、生きることはパサール・エル・ラト、つまり暇つぶしをする、時をやり過ごすことである、とも言っているからね。つまり生の意味を見出さんとする姿勢からは悲劇的感情が生まれ、生の無意味さを暇つぶしでまぎらせようとする姿勢からは喜劇的感情が生まれる。
――答は分かっているような気がするけど、どちらが本当なの?
――そう、どちらも本当。というより、どちらも結局、同じ一つのことを言っているにすぎない。なぜならパサール・エル・ラトのパサールという言葉は、同時に、苦しむ、耐えるという意味、つまり生の無意味さに耐えることでもあるからね。
――どちらにしてもペシミスティックだな。
――そうかな、いやむしろペシミスティック・オプティミズムだと思うがね。つまり根底はオプティミズム。
【息子注】文中の一部を伏字に処した(2021年3月17日記)。
ウナムーノ、ビーベスという名前は、私にとって、先生との出会いがなければ終生知らなかったと思います。ウナムーノに関する書物も先生のものを何冊か拝読しましたが奥が深くまだまだ理解できません。そして、島尾敏雄氏を原点に広がっていかれた数々の作家との関係。一つの共通点を見つけるとするなら「カトリック」というものが深く根底に流れているように思います。先生の執筆されたものには、これらの人たちとの交流を通じて、人生とは何か、生きていくことの意味、一歩踏み込んで言えば、「魂の力学」が意味するものの答えを読者に示唆しているように私は感じます。そして、スペインで紹介されることでスペイン人に新たな「魂の力学」としての発見の場になると思います。
追記 「魂の力学」という言葉は、先生の著書から引用したものですが、ウナムーノを初め島尾敏雄氏を理解するということは、先生の生き方そのものを理解することだと私は直観として感じました。先生の執筆されたものには、彼らの魂との深い繋がりが随所に感じられ、そういう意味で「魂の力学」という表現をしましたが、飽く迄私の独自の解釈です。