お久しぶりです。お元気でしたか。私の方はお蔭様で何とか頑張ってました。しばらく書かなかったのは、この間いろいろ忙しくしていたからです。遠来の客人のこともありましたが、たぶんいちばん大きな理由は、また新たな地平が見えてきたことでしょう。具体的に言えば、例えばオキナワのこと、原爆(原発ではありません、もちろん深い関係がありますが)のことなど、これまでただ表面的に、つまり私自身の生き方に関わる問題として捉えてこなかった大事なことが、ここにきてにわかに切実な、身につまされる問題として迫ってきたことです。
オキナワについては、もちろん佐喜眞美術館での鄭さんの写真展をきっかけにその後もいろいろと勉強してきました。私の反原発運動の大きな動力源として、今後とも更なる関係を深めていきたいと願ってます。もう一つ、原爆について眼が開かれたのは、それとは何の関係もないと思われる二人の作家、いやもっと正確に言えば五人の作家との遅まきの出会いからです。一人は作家・長谷川海太郎(1900-1935)、もう一人はその弟の長谷川四郎(1909-87)です。おや、それでは二人では? いえ、生身の人間としては二人ですが、実は長谷川海太郎は同時に『丹下左膳』の林不忘でもあり、「メリケン・ジャップ」物の谷譲次でもあり、怪奇実話物の牧逸馬でもあったからです。
先ずは海太郎ですが、以前から注目してはいました。つまり彼が世に送り出した『丹下左膳』のその主人公、すなわち片目片腕の左膳が「江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、相馬大膳享殿の家臣」であり、彼が乾雲・坤竜という名刀探しの旅に出たのも、大膳享の命を受けたからということを知って以来です。といってこれまでその出発点の「乾雲坤竜(けんうんこんりゅう)の巻」は持ってましたがまともには読んできませんでした。それが今回は光文社文庫にあった「こけ猿の巻」と「日光の巻」も手に入れ、ようやく左膳の全貌を知る用意ができたところです。もちろんそれらは美子の極彩色の巻きスカートの切れ端(バティック)で豪華な装丁を施され、志村立美のあの色っぽい左膳の挿画、つまり派手な女物の長襦袢を下に着込んだ怪剣士の挿画も切り取って表紙に貼りました。
いやいや話はもっと遡らなければなりません。今回改めて左膳を読む気になったのは、『原発禍を生きる』のスペイン語版を出してくれたサトリ出版のアルフォンソさんが、どういう経緯でかは知りませんが、左膳物のスペイン語訳出版を考えていると■さんが教えてくれたからです。それでさっそくアルフォンソさんに、左膳が相馬藩に属するサムライであること知ってますか、とメールしたところ、彼もびっくりして今回も相馬との縁を感じます、と返事してきました。
ところが肝心の私自身が左膳物を読んでいないことには格好がつきません。それであわてて他の本も手に入れ、そのついでに谷譲次の『踊る地平線』(岩波文庫、上下、1999年)も、牧逸馬の『世界怪奇実話』(光文社文庫、2003年、2刷)も、さらには弟・四郎の『恐ろしい本』(ちくま少年図書館、1989年、18刷)もアマゾンから安く手に入れた次第。
ここでようやく原爆にたどり着きました。つまり四郎のその本に収録されていた「死んだ女の子」が子供向けながら原爆という「恐ろしい」ものの全体像を、三つの角度から実に分かりやすく教えてくれたわけです。つまり原爆投下のために飛んで行くアメリカ軍の将校や兵士たちの行動や気持ち、そして原爆を落とされた側の子供たちの作文、そしてどのようにして原爆が作られ投下されるに至ったかを科学者やアメリカ政府の動きから、多角的に描いた文章なのです。
なぜ怖い話なのか今さら言うまでもありません。何十万というアメリカ軍兵士、そして(ついでに)何十万人という日本人の命を救うためには、そして無益な戦争を終わらせるためには、原爆投下が必要だったという説明は、とりわけナガサキ投下に関しては全くの詭弁だったという恐ろしさです。ナチス・ドイツの原爆製造計画の機先を制するためだとしたマンハッタン計画そのものも、総崩れのドイツには既にその計画を遂行する力が無いことが明らかになった後も継続されたという事実。
巨額の投資をした以上、元はとらなきゃ、と一人歩きしていく軍事産業。そんなことを言えば、原発遂行の流れもまさに同じ論理が働いていることは自明の事実。
さて話は相前後するが、相馬サムライの祭典「野馬追い」の写真展を震災の年の十一月にセビーリャで開催したサルバドールさんとアリータさんが仙台廻りで拙宅に寄ってくださったのは今月の十日だった。お二人とも日本語がかなりお上手なので、話は多岐に亙って実に面白かった。写真そのものは震災一年前に撮られたものだが、それを震災のあとに、遠くスペインからの復興を願うエールとして、しかも歴史の都セビーリャで展示したことは実にありがたいことだったと改めて感謝した。もうご覧になった方もあると思うが、その映像はこのブログからも見れるようになっているので、未だの方は是非ご覧下さい(「スペインから見た日本」)。
海外からのお客さんにサムライ繋がりの人がもう一方いた。しかも今度はメキシコから。つまり天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)の達人ダニエルさんである。この古武道の流派は、室町時代中期に飯篠家直によって創始された武術流儀で兵法三大源流の一つだそうだ。いや正直言うと、今回ダニエルさんを介して初めて知った流派である。その彼がなぜ拙宅に? 簡単に言えば、拙著のスペイン語版の表紙を画いてくださったエバさんも実はマドリードの神道流の道場に通っている剣士であり、二人はその道場で知り合った仲。それで著者の私にぜひ会いたいと、今回の来日となった次第(たぶん他にも用事があって)。
達人と言ったが、もちろんその腕前は知らない。しかしメキシコにその香取神道流の道場があり、ダニエルさんがその道場を主管しているとは、これまた驚きである。確か彼の祖父が日本人であることから、日本の伝統、それも思いっきり古い武道を極めようと思ったらしく、そうした伝統とは全く縁の無い私にはただただありがたいことであり、更には十一歳の彼の長男が父の後を継ごうと修行していることを知って恐れ入谷の鬼子母神である。
そういう純粋な武道家から見れば、先の左膳など武士の風上にも置けない異端児かも知れない。何しろこの異形の剣士、やたら人をぶった切る。大河内伝次郎演じる左膳には、原作には無い武士道批判の趣があると言われてきた。まだ原作を全部読んでもいないので、これは全くの当てずっぽうだが、左膳という存在そのものが形骸化した武士道への大いなる疑問符と取るべきではなかろうか。左膳が書かれた時代はまさに、社会のすべての歯車がキシキシと狂いはじめ、しかし表向きはやたら国家の威信を強調する軍国化への傾斜を深めていた時代である。わずか35年の、作家として十年にも満たない短い生涯を三つの「異名者」を演じながら書きなぐり書きまくって果てた長谷川海太郎は、本人自身にその自覚があったかどうかは別にして、やたらもやもやとした時代閉塞の世を、ぶった切りながら駆け抜けたような気がしてならない。
サルバドールさんやダニエルさんとも異口同音にたどり着いた結論というか現代批判は、この理不尽な世をばったばった切り捨てる批判の動きが、マスコミを初め社会のどこにも見えない不気味さについてであった。昔はどんな新聞にもあった切っ先鋭い社会批判の漫画やコラムが今やどの新聞にもほとんど見られなくなっていることだ。赤シャツや野だいこに正義の鉄拳を喰らわせる言論人がほとんどいなくなったこと。時おり批判めいた文章が散見されたとしても、それらは概ね上品で節度をわきまえた論調を出ることはない。
あゝ我に海太郎の文才と馬力ありせば!
※追記
たぶん(善意に解釈すれば)参事官の交替などのことがあってか、例のビスカイーノの話は頓挫したままだったが、先日陋屋を訪ねてくださったダニエルさんとの話し合いで、再びその話の実現可能性が出てきた。彼もメキシコと相馬を結ぶこの美しい史実の意味と重要性を良く理解してくださった。大使館を通す通さないは今後の問題としても、帰国後、この計画実現に向かってその筋の有力者たちと相談してくださることになった。別に急ぐ話ではない。じっくり計画を練っていければ、と願っている。
いくぶん暑さが和らいで来ましたが、今年の夏は猛暑でしたから先生がご体調でもと思っていました。お元気そうなので何よりです。ここのところ遅読(先生の造語)でモノディアロゴスを読み返しています。今、『モノディアロゴスⅢ』の200ページあたりです。先生が言われている「魂の重心を低く」、「砕けて当たれ」ということを掘り下げて考えています。最終的にはその言葉の意味を実際に行動しなければ理解できないものだということが最近わかってきました。そのためには意志の強さや勇気が必要ですが、今の私にはまだそこに至るまでの精神的強さが欠けています。何事も一朝一夕でことを成就することは出来ませんから、じっくり、粘り強く続けていかなければなりません。その時の気分やノリなどでは到底解決できない難問ばかりです。
先生のモノディアロゴスを読み返していると、一つ一つの問題を解決するための方向性を示され具体的に実行されていることがわかります。戦争のない平和な社会を作ると常に言われている先生の言葉を考える時に、先生のいつも変わらない奥様に対する温かな心遣いを思うと、日頃の私自身の「魂の重心」のあり方から始めなければと感じています。
佐々木先生
長谷川四郎『恐ろしい本』、早速アマゾンで注文して、先ほど読み終えました(150円で買いました)。
原爆投下に行く米軍兵士側からの記述は私も初めて知りました。その後の「地獄」はこちらもわかっているので、淡々とした描写がかえって、それこそ「恐ろしい」と強く感じました。
パコ・ロカの『皺』も先生が紹介されていたので、以前アマゾンで買いましたが、これも感動しました(この本は織田さんにも貸してあげたところ、やはり大変感動したとのことでした)。
良い本を紹介していただきました。ありがとうございました。
「死んだ女の子」で、中桐雅夫の『母子草』という詩を連想しました。あまり知られていない詩ですが、とても良い詩でみなさんにも知っていただきたいので、紹介させてください。私は毎年8月6日になると読み返します。
母子草
中桐雅夫
四つの子供が、四つの広島の女の子が
「もっと生きていたかった」といって死んだ、
そんなことがあっていいものか、
子供の細いのどをこんな言葉が通っていったとはー
だれが殺した、なにが殺したかはいえぬ、
だが、その死に責任をとる者がいないとは、
哀れな死だ、ひとしお悲しい死だ、
しかもまだ小学校へもいかぬ子供なのにー
だれでも経験があるだろう、運動会で
子供たちが懸命に走っているのをみると
眼がうるむのだ、自分の子供でもないのに、
ビリの子供の力走には涙が出てくるのだ。
夏の道端に母子草の小さい黄色い花が咲く、
四つの娘と、娘を非命に死なせた母親をだれが忘れよう。
話が変わりますが、長谷川四郎は1909年生まれですが、この1909年生まれの文学者には、他に、埴谷雄高、花田清輝、中島敦、太宰治、大岡昇平、松本清張がいます。
私がなんでこんなことを知っているかというと、2009年に新聞や雑誌で、「生誕100年」でこれらの作家の特集をやっていたからです。太宰治と松本清張が同い年とはびっくりしました。それにしても、すごいですね。この年にこれだけの作家が生まれたとは。
他にも1909年生まれの文学者がいないかと思って、先ほどネットで調べました。
そうしたら、まどみちお、飯沢匡(劇作家)、中里恒子もそうでした。
他に、淀川長治、遠山啓(数学者)、赤松啓介(民俗学者)、松田甚次郎(宮沢賢治の弟子の農業指導者)、土門拳、田中絹代、佐分利信、上原謙、小澤栄太郎、夏川静江、小夜福子、古関裕而(福島県出身ですね)、水原茂などなど。
ついでに、外国では、シモーヌ・ヴェイユ、イヨネスコ、エリア・カザン、ベニー・グッドマン、マルセル・カルネなどなど。
やはりすごいですね。
この中で、まどみちおさんだけがご健在です。満103歳。