クリーンな兵器などあるかーっ!!!

このところいろんなことが気になりだして、ちょっと収拾がつかなくなってきている。でも考えてみるとそのいずれも大事な問題で、でき得るかぎり調べたり考えたりしなければならない問題であることには変わりがない。ただし自分にそれに立ち向かうだけの能力があるかどうか、そして大事ではあっても老い先短いことを考えれば挑戦を諦めなければならないのでは、と一応は考えてみた。でも結局は黙って通り過ぎることはできず、負けを覚悟で果敢に(?)立ち向かうことになろう。つまり砕けて当たるであろう。
 その一つは、人類の行く末の問題、いや、もっと正確に言うと、生物としての人類がその発生から始まって、いったいこの先どこまで進んでいくのだろう、というとてつもなく大きな問題である。つまり哲学的人間論を越境して、生物学的人間論にも踏み込むことである。
 ことの発端は、やはりいつもの通り、たまたま見かけた未読の本がやたら気になったことから始まった。テイヤール・ド・シャルダン (1881-1955) の『現象として人間』(美田稔訳、みすず書房、1974年、6刷) である。北京原人の発掘でも有名な古生物学者で哲学者のフランス人イエズス会士の問題の書である。無生物から人類にいたる進化の過程を、オメガ点すなわち神に向かう壮大な運動としてとらえ、ガリレオ以来、とりわけダーヴィンの進化論を争点として対立してきた科学と信仰を大胆に調和させようとした人の著書である。それに対してはとうぜん教会内部からの執拗な攻撃があった。新旧両キリスト教の対立が激しい昔だったら、彼はとっくに異端審問にかけられ火炙りになっていたであろう。
 ただし今回、彼の思想が気になりだしたのは、科学と信仰の調和などといった、いわば神学論争についてではない。原発事故以来考えざるを得なくなってきた人類の未来を考えるに当たって、いったい人間はどこまで「進化」しなければならないのか、そのヒントを得たかったからである。となると、彼の明らかにオプテミスティックな考え方に対しては、初めからかなり批判的というか警戒の気持ちが先立っている。つまり人類の進化はもうとっくにその限度を超えていて、早急にブレーキをかけなければ、それこそ収拾がつかなくなるぞ、と考えているからだ。
 アダムとイヴ神話を人類の出発点と考えてきたキリスト教にとって、人間は無生物からの驚くべき進化の果てに誕生したという、今ではキリスト教自体も認めざるを得ない人類発生の生物学的・科学的事実を、キリスト教信仰となんとか調和させようとした彼の思想遍歴は、ある意味で感動的ではあるが、しかし私からすればそれももう一つの「神話」を作ることではないか、と冷たく突き放しているところがある。しかし彼の思想をたどることによって、私自身の問題、つまり私とキリスト教の今後の(つまり死ぬまでの)関係如何という課題に何らかのヒントになりはしまいかとの漠然とした期待もあるのだ。
 それで実際に読み通せるとはとても思えないのに、アマゾンを通じて彼の著作集を第十巻目の「生涯」を除いてすべて揃えようと注文してしまった次第。もっとも本の注文はそれだけではなく、他にも、ニム・ウェールズ、つまりエドガー・スノー夫人の、ある朝鮮人革命家の生涯『アリランの歌』(松平いを子訳、岩波文庫、1997年、11刷)とか、阿波根(あわごん)昌鴻(しょうこう)『命こそ宝(ヌチドゥタカラ)』(岩波新書、1992年) や白井久夫『幻の声 NHK広島8月6日』(岩波新書、1992年) など、朝鮮、オキナワ、ヒロシマ関係の本もある。
 かくのごとく、ここに来て収拾がつかぬほど雑多な問題にこころ奪われているのは事実だが、しかしそれらはすべて原発問題に触発され、なんとかその問題にこだわって行きたいとの一念からのものであることは間違いない。でもそんな折にも、現実世界には次々と問題が起こっている。
 オバマ大統領は九日の議会にシリアへの軍事介入の承認をもとめる構えを見せている。イギリスなど同盟国が次々とそれを断念しているというのに、あくまで初志を貫くつもりらしい。オバマよ、お前も歴代大統領の轍を踏もうというのか。がっかりさせるねー。そんなに戦争したいの?
 まだしっかり確認もされていないシリア政府軍側の化学兵器使用がその理由とか。でもねー通常兵器は許されるが化学兵器は許されない、というその論理が私めにはどうしても分からんとです。以前、生きのいいぴんぴんした兵士を殺すのは許されるが負傷した敵兵を殺傷するのは人道上許されない、とする一見まともな考え方、そしてだれもが納得しているらしい考え方に異論を呈したことがありました。そんな考え方は、言うなればマカロニ・ウェスタン調のやたら銃をぶっ放すガン・マンの一応は体裁をつくろった仁義以外のなにものでもない。つまり本筋を離れた枝葉末節の形式論に過ぎませんぞなもし。
 今回だってアメリカ軍の介入によって、イラク戦争のときと同じように、化学兵器使用による死者をはるかに超える死者が出るはず。どこか人里離れたところで、つまりワーテルローや関が原のような「戦場」での戦いならまだしも、市街戦では敵兵だけでなく無数の一般市民が巻き込まれるのは火を見るより明らか。
 つまり化学兵器は人道上許されないが、それよりもはるかに殺傷力のある通常兵器は許されるとする常識もしくは通念、私ゃ頭が悪いんでしょうか、どうしても分からんとです。
 いやそれよりももっと分からんのは、それでもアメリカの肩を持とうとしている日本政府の実に愚劣極まりない姿勢です。オバマも含めて、そんなに戦争したい政治家たちよ、君たちが先ず率先して最前線で参戦することでんな。原発推進派はすべからく原発周辺に居住すべきという、実に真っ当な考え方と地続きの異論、いや正論です、わっかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~(このあたり南相馬親善大使・松鶴家千とせ風に、そして最後に「いえーっい」の決めぜりふを)。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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