病室から(その二十一)

八月二十一日(金)晴れ時々雨
 午前中、川口の孫たちをどこに連れて行こうか迷ったあげく、馬事公苑にした。あいにく小雨がぱらつき、車の外にも出られないので、五歳のお兄ちゃんの方が退屈を通り越して気分が悪くなったようだ。馬事公苑からダムに向かったが、そこでも雨のため車から降りられず、結局スーパーでお昼の弁当やら家の中で遊ぶためのおもちゃなど買って帰宅。朝寝から醒めた愛が待っていた。

 午後、陽が差してきたので、予定より早く家に向かう。途中、今から病院に行くところだったという娘たち(つまり娘と嫁)とその子供たちが歩いて来るところに出くわす。それでは、ということで病院行きをやめて、みんな(合計五人)を最近できたショッピン・センターに連れていくことにした。町の西手、原高のちょっと先の広大な敷地になるほど大きな建物がいくつも立ち並んでいた。

 中に子供の遊び場があるというのでやってきたのだが、なんとそれはいわゆるゲーセンである。内部はかなりうるさいし、幼児たちの遊び場ではない。とりあえず広い空間のアイスクリーム屋で休むことにした。おじいちゃんは後で迎えに来るから、と彼女たちをそこにおいていったん家に帰る。

 ともかくどでかいものができてしまった。ドーナツ屋さん、アイスクリーム屋さん、すべて東京など大都会にあるものと同じ店が軒を並べている。中で買い物をしているかぎり、ここが田舎だとは思えない。わが町もこうなってきたのか。要するに、全国どこへ行っても、まるで金太郎飴のように同じ絵柄が並んでいるというわけだ。地元の店屋さんもところどころ店を出しているが、製造、仕入その他、大きな流通機構の中でどこまで頑張ることができるか。早晩大資本に呑み込まれてしまうのでは、と他人事ながら心配になってくる。

 イオンだかネオンだか、最近やたら目につくので電子辞書で調べてみたら、「イオン=スー・パーチェーンストア。イオングループの中核企業。1928年岡田屋呉服店として設立…70年ジャスコ他3社が合併し社名岡田屋からジャスコに変更…2001年社名をイオンと改める。店舗数364、年間売上高約3兆、資本金490億、従業員数1万6千人」。

 へえー初めて知った。しかも上の数字は2002年のものである。現在ではその何倍にもなっているであろう。以前、福島市だったか、大型店舗進出を阻止する条例を作ったと新聞で読んだ記憶があるが、その後どうなっているのだろう。どうもこうした巨大な流れは止められないのではないか。小売商で生きてきた人たちの子供たちは、おそらくもうすでに別の生き方を模索しているのであろう。別の流れ、あるいは逆流はもはや不可能なのか。

 町はずれのこのショッピング・センターのあおりを受けて、市街地の小売店の開店休業さらには閉業は加速し、町の空洞化は避けられまい。もう遅いのだろうが、根柢からの町の構造を考え直さなければ。日本中同じ悩みを抱えているはず。時おり、どこかの町での成功例が報じられることもあるが、全体としてはこの急速な流れに抗しきれずに後手後手に回っているのであろう。

 あと数日で政権交代が現実味を帯びてきた総選挙。しかしこの期に及んでもなお日本自体の将来ビジョンがはっきりしていないのだから、地方のビジョンが迷走状態なのも無理はない。
 なんだか今日はつい柄にもなく政治がらみの話に終始した。ともあれ明日、娘たちは帰っていく。急に寂しくなる。美子はどういうふうに感じているのだろうか。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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病室から(その二十一) への4件のフィードバック

  1. さいとうかずこ のコメント:

    初秋の感想
    かって、向かい側の建物。2階の化学室が私の仕事場だった。課外授業の後、進路指導のあと、実験研究をしながら、北の窓に拡がる広大な田んぼを見ると視神経を通り越して心身が洗われた。子供たちの秘密基地があった小高い手長山があり、水無川畔の我が家の屋根も見えた。共働き、両親不在でも息子たちは、野山を駆け廻りゆたかな自然に遊んでいた。田んぼの緑風が実験室に満ちるとき、受験屋のような教師稼業も肯定できた。窓の向こうの四季に、夢のような三次元の世界が創造できた。それは、地方公務員でない、母親でない、妻でない
    私の居場所だった。職場と家庭と、どこにも所属しない自分が存在する不思議な空間。地域社会は個人の私感を超えて、もっと普遍的なかけがえのないものを、失ってしまった。夜の空はオレンジ色に染まり、☆は11時にならないと見えない。
    だが、騒音のゲームセンで人工の遊びに興じた孫たちは、翌日、水無川で渋佐の海で手長山で・・底抜けに笑って帰っていった。4才と2才の女の子は、パパが小さいときの記憶を多分前頭葉に刻んでいる。と、思うことにした。非科学的な発想だが、DNAは連続するのだから。最終的に経済力が社会文化を崩壊させることはないし、人間力は見捨てたものではない。日頃のうっぷんに長くなって貞房氏にお詫び。失礼!シマシタ。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    あゝあれは手長山だったのですか。ここに書かれていることで、さいとうさんの歴史が、これでまた少し埋まりました。これからも、どうぞどんどん書き込んでいってください。私の舌足らずの文章も、おかげさまで意味を膨らませてくれるでしょう。よろしく!

  3. アコ のコメント:

    【アーカイブス】気になってましたが5/22の美子さんの辞書のことです。高橋和己が亡くなったときの高橋たか子の新聞コメントは「ほっとしました」でした。いわき市の詩人・三野混沌についても『洟をたらたし神』の作者である夫人の吉野せいにお会いしたとき、同じような言葉を聞きました。お二人とも夫の死後、堰を切ったように名著を書いてます。書きたい気持ちを抱えたペアが同居する場合、女は無意識に自己規制します。或いは生活を背負います。島尾の場合も少なからず、日本女性としてのストレスがミホさんにあったと思います。最近、それは愛情半々のセリフなのだと気が付きましたが、女は強いけど我慢してるかも。で、美子さんの破いた夢を修復なさった貞房氏はすごい!〈そうです。いつか書きたかった家庭の事情でした。〉美子さん、視線が合うと時々キラッとします。分かり合えるような・・。

  4. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    もうどこかで書いたことですが、いつも書いたものを真っ先に美子に見せ、その反応に励まされて出版社に、あるいは編集者に、そして最近ではネットに送ったり載せたりしたものでした。そして発表されたものに間髪を入れずに温かな反応を示してくれたT.N氏のお墨付きを得て、私の書く作業は完了したものでした。T.N氏は相変わらず励ましてくれますが、美子のゴーサインがもはや得られないのが、まるで宙をまさぐるようで、なんとも心細いのです。

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