数日前の新聞のコラムに、今度の帰郷は二度目の土着化の試みであるといった趣旨のことを書いたが、正確に言うと三度目の試みかも知れない。いや待てよ、最初のもの、つまり小五から高校三年までのものは親に連れられてのもの、自分の意思からではないので、やはり二度目になるのか。要するに、うっかり忘れていたのだが、昭和42(1967)年、J会を退会して原町に戻ってきたときのことを思い出したのである。戻ってきたのはあの年のちょうど今ごろではなかったか。自分としては挫折とは思っていなかったし、今もそうは思っていないが、世間的には一敗地にまみれ、尾羽打ち枯らして故郷に逃げ帰ったと見られても仕方のない帰り方をしたときのことを思い出したのである。
 翌43年の秋、つまり帰郷後一年にして結婚、そして翌44年秋には一度に二児の父親になり、このまま定職もないまま田舎で生活することは無理と考え、 45年の春、妻とそれぞれ一人ずつ乳飲み子を抱いて上京したっけ。つまり二年半の土着化の試みにしくじって、今度は故里を出奔したわけだ。波乱万丈とは言わないまでも、自分たち夫婦にもいろいろなことがあったわけだ。さてこの歳になれば、これが最後の「移動」であり、ここが終の棲家となるのが自然であろう。数年前までは考えても見なかった展開だが、自分も妻も現在の状況にすこぶる満足している。ボケになる速度をできるだけ遅くしながら、ゆったりと暮していこう。
 と、ここまで書いてまた思い出したのは、その二度目の(本当は最初の)土着化を試みた二年半のうち、半年はF市にあった妻の実家での生活が入っていたことである。まだ子供が生まれないときのこと。しかし正直言うと、このあたりのことは今までしっかり思い出したことのない、もしかするとちょっと思い出したくない、いわば暗部であり、だから先日のコラム執筆時にこのときのことをつい忘れてしまったのだろう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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