満州国官吏消費組合

わずかしかない父の遺品のなかに、いくぶん大きめの手帳(携帯日記帳)があったはずだが、どこにあるかなと思っていたら、今日の午後、バッパさんをS病院に連れていくとき(何のため?何かの検査か暇つぶしかは不明)、彼女から唐突に渡された。仏壇にしまっていたらしい。茶色のおそらくは模造革の表紙〔横十一・五センチ、縦十五・五センチ〕、小口が全て金色に塗られた厚手の手帳である。表紙裏に貼られた小さなシールによれば、定価は壱円二十五銭、購入先は承徳の満州国官吏消費組合。購入されて間もなく病に臥したためか、父の筆跡のものは、親戚や友人・知人の住所録以外、何もない。几帳面な性格を示す小さく細い字。ただ巻末に、それより少し大胆な筆跡の詩らしきものが二つあった。私たち家族と同時期に内蒙古に移住した母方の叔父誠一郎のものらしい。そのうちの一つを以下に書き抜いてみよう。



   壮士稔兄を唄ふ


 聖きかる可きあの教壇に
 濁れる波の世の相(すがた)
 國を憂へて 祖国よさらば
 あゝ玄海のかもめよさらば


 波の彼方の蒙古の砂漠
 男多恨の身の捨てどころ
 胸に秘めたる大願あれば
 生きて還らん望は持たぬ


 杏(アンズ)花咲く熱河の山に
 妻も吾子も笑って来たぞ
 胸を敲へて西空見れば
 万里の長城泪にかすむ


 男三十裸の生まれ
 金も要らぬし命も要らぬ
 ランプ灯して同志と誓ふ
 明日も晴れるぞあの山かげは


 夢よ正夢熱河の山を
 驢馬に揺られてトボトボと
 民の笑顔に俺又泣いて
 蒙古櫻の乱れて咲くは


 何を恐れん匪賊の丸(タマ)も
 熱いこの胸親父のゆづり
 高粱穂風の満州晴に
 長髪なびく宣撫行


 俺のこの骨熱河に埋めて
 妻よ吾子よいつの日還る
 俺はいつでも生きてはおるぞ
 野菊と一緒に野山に咲くぞ

 
 六連まではまさに壮士を讃えるいさましい内容だが、七連目になると急に死の臭いが立ち込める。父が当時は不治の病とされた、まして医療設備のない満州の片田舎では絶望的な病である結核に冒された後に書かれたものなのか。その叔父自身、無事帰国はしたが、後年その同じ結核に斃れた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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