…「列伝」ばかりでなく、二十四史全体が、中国人が昔から集積した人間学の宝庫であると言ってさしつかえない。
このような人間学の発達は、ひとり歴史編纂者ばかりでなく、一般の中国人にも影響した。むしろ一般の中国人が自分たちの生活の深みから何代にもわたって生み出した人間学が、このような歴史の土台をなしているのである。人間の暮らし方、生きて行く方法に関する中国人の異常なほどの関心、研究心、あらゆるものを人間中心に眺め、この世の生存の楽しみ、この世の子孫の繁栄を考えぬかせたのであって、そのためには、自然科学や宗教のようなものまで、あまりに人間臭のはげしい澱みのなかに置きざりにして、かえり見ないほどであった。
……中国の歴史の形式と精神を創り出した司馬遷という人などは、この世に絶対者というものを認めていない。どんな権力者、どんな帝王、どんな軍人政治家も、もとを正せば、また本体を洗ってみれば不完全な人間にすぎないことを証明するために一生をついやしたような人である。
……儒教の文献その他、公の教えを説くものは仁義とか礼節とか、人間の暮し方を一つのわくにはめこんでいるようだが、実際の中国人の生き方は、遥かに自由で豊富であった。女の道徳など、かたくるしくしめつけられたような表面の下に、おどろくほど多彩で、屈することのない、つまり平凡にして根強い生存欲を思う存分のばしひろげる工夫がこらされていた…
また人間の考え出したあらゆる人間論よりも、人間は更に複雑であり、豊富であることをよく感得している。読者がこのことわりを忘れず、作者がこの真理を感得しつつ、その上に生み出された中国文学であるからには、書くことが生きることであり、読むことが生きることであるという文学的事実もまた、この意味での中国文学的解釈を必要とするであろう。書くことが生きることである、と日本の告白作家が宣言する場合、それはここで言う中国文学的解釈からは、子供らしく思われるかもしれぬ。また、中国の読者が読むことは生きることであるとする場合、それは西田哲学の書物を買うために行列する東京の学生とは、意味するところ自ら異るであろう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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