原爆絵図

高を括り過ぎてたようだ。朝起きると昨夜よりさらに症状が悪化していた。起き掛けに鏡の中に見たものはまさに幽鬼の顔だった。丸木画伯の原爆絵図を見る思いだ。バッパさんをセンターへ送るとき、彼女もさすがに恐縮し神妙だった。ちらっと惨状を窺ったに違いない。それでも病院に行くことに踏み切れずに午前中を過した。
 昼食後、思い切ってK皮膚科医院に電話してみた。何度か通りがかりにそのピンクの建物を見たことがあったからだ。新来患者は2時半からということだったが、念のため1時半に車で行った。保険証を出し、外来リストに真っ先に名前を書いて待つことにする。他人を病院に見舞ったことはあるが、自分自身が診てもらうのは、さて何十年振りだろう。
 再診の患者が少なかったのか、2時ちょっと過ぎに順番が回ってきた。お爺さんである。といって向こうもこちらをお爺さんと見たかも知れない。いきなり採尿をさせられた。おばさん看護婦がすぐリトマス試験紙みたいなものを持ってきて結果をしらせてくれたが、糖度がかなり高いらしい。糖尿の気があったかどうかお医者さんに聞かれたが、全く自覚症状はなかった。
 糖度が高いと強い効果の注射は打てないので、弱いものにしておくと言われる。昔々高校生のころ、とつぜん上半身を襲った蕁麻疹が一本の静脈注射で見る見る消えていくあの快感を味わえないのが惜しい。
 まさか知らぬまに糖尿病になっていたとも思われないが、しかしつい最近も頭皮が異常に乾燥し、顔面がぱさぱさしていたのも、たぶん危険信号を発していたのかも知れない。要するにストレスが溜まりにたまっていたのであろう。いろいろ要因はある。しかしいずれも避けて通ることのできない問題ばかりである。それなら、むしろ腹を括って、つまり当たってくだけろではなく、くだけて当たることに慣れていこう。
 ところで医院から貰ってきた錠剤二種類、塗り薬二種類、スプレー式の薬、を一通り使ってみたが、予想通り劇的な改善は今のところない。でも緩やかながら快癒に向かいつつあると、今は信じるしかあるまい。
 一度は打ち止めにした中国関係の古書購入も、実はいつの間にか再開しており、このヨブ的受難の中でも、階段下の壁に、全60巻の「中国古典文学大系」、全13巻の「中国の革命と文学」(ともに平凡社刊)収納のための本棚を作った。ご苦労なことである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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