H君などと匿名にする理由なぞない。H君である。つい君呼ばわりにしたが、彼ももうかなりの歳だろう。それまで、つまり私が原町に帰ってくるまで、ばっぱさんの友人であった。自分の口から言うのもなんだが、私の帰還を心待ちにしていたようである。彼の愛してやまない原町のために、なにか手助けしてくれるのでは、と期待していたのかも知れない。
ところが私の方は、新しい環境に順応するのに精一杯で、彼の期待に応えるそぶりも見せなかった。落胆させたと思う。そのうち彼の健康状態が思わしくなくなり、次第に疎遠になっていった。彼のホームページが無くなり、気楽にコンタクトをとる機会も無く今日に至った。住所も、多分メールアドレスも、知っているのだから、連絡を取ろうと思えば取れるはずだ。万が一、二つともに応答が無かったとしても、この町には彼の実家もあり友人もいるのだから、消息は簡単にたどることができるに違いない。
そんな友人知人が、彼以外にもいっぱいいる。スペインにいるM神父、シスターG、非常に魅力的で哲学的なホームページを運営し、メールやネット上で実に深く鋭い知性を感じさせた「えにしだ」さん…
なぜ積極的に消息を探ろうとしないのか。自分でもちょっと説明のしようがない。あえてこちらからアクションを起こさずに、自然の流れに任せた方がいいのではないか、あるいは過ぎ去った空白の時間の中で、何かが変質して、もはやかつてのような豊かな交流はできないのではないかとの恐れ。いや正直に言えば、たんに自分の頭の上のハエを追い払うのに精一杯だったからではないか。
H君の話に戻ろう。いま彼の書いた何冊かのXシリーズ、あるいはYなどを見ながら思うのは、私がいつか「メディオス・クラブ」などを通じてやりたいと思っていることのかなりの部分を、すでに彼が手がけていることだ。彼には私などまったく持ち合わせのないジャーナリスト的感覚がふんだんに備わっており、それはたとえばZやWなどにいかんなく発揮されている。また一つの町の歴史を、小さな映画館の80年間の上映映画を丹念に記録することによって、同時にこの町の、さらには時代の浮き沈みを浮き彫りにしてくれている。
いずれにせよ、いま一度彼の仕事をじっくりたどってみよう。そうこうしているうちに、彼からまた連絡が入るかもしれない。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ