東京のおにいさん

寺内邦夫さんの「マヤさんの葬送」を読んでいるうち、マヤちゃん(といつも呼んでいた)からの手紙があったことを思い出した。といって島尾敏雄の手紙類(ミホさん、伸三君、マヤちゃんからのものを含めて)はすべて数年前埴谷・島尾記念文学資料館に寄贈しているので今手元にあるのはコピーである。
 便箋一枚に横書きで書かれた手紙一通で、日付は昭和41年(1966年)6月23日、あて先は当時私がいたJ会神学院、差出人は中目黒のチャールズ・L・メッド方、Miss Maria Maya Shimao となっている。メッド氏は名瀬にあった日米文化会館が鹿児島県立図書館奄美分館に変わって、そこの分館長となった島尾敏雄と、最初はアメリカ合衆国国務省の役人として接触があり、後に東京の彼の家にマヤちゃんを2年間近くも預かるほど親密な家族ぐるみの友人となった人である。
 私も何度かマヤちゃんに会うため祐天寺駅近くにあった彼の家を訪れたが、その同じ年の夏、名瀬の島尾家に私自身が一月ほど滞在するための往復の旅で、彼の二人の男の子クリスティとマイクの世話をすることになる。奄美旅行には同道しなかったが、もう一人ウィリーというお姉ちゃんがいた。そのころマヤちゃんは16歳、すると彼ら三姉弟も現在では40代の後半に差し掛かっているはず。その後メッド夫妻は別れたと聞いたような気がするが、あの三姉弟はどうしているんだろう。
 ともあれいま振り返ってみると、あの昭和41年夏というのは、まず前半に埴谷雄高さんと伸三君、マヤちゃんと相馬行き、後半はマヤちゃんと悪童二人を連れての奄美行きと、なんとも忙しい夏だったということになる。
 さて肝心のマヤちゃんの手紙は次のような文面になっている。

「Today is June twenty-third
こんどの土よう日(25日)に東大分院の歯科に行くの。それで連れていく人がいないの。おじさまやおばさまはいそがしいので、にゃん子、一人でいけないの。孝おにいさまがひまだったらいいのにね。もしいそがしければいいの。いけるかいけないか、にゃん子にでんわをしてね。きのう(22日)おかあさんから手紙がきました。  さようなら」

 文中、自分のことを「にゃん子」と呼んでいるが、今回寺内さんの本で、「マヤ」は奄美の土地言葉で猫を意味するからだということを初めて知った。また私のことを「おにいさま」と呼んでいたことを、いまある痛みを覚えながら思い返している。私自身、その後「還俗」したり結婚したり、自分の生活にかまけ切ってしまい、「東京のおとうさん」と呼ばれた埴谷さんのようには以後マヤちゃんのことをあまり気にかけなくたってしまったことが悔やまれてならないのである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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