病室から(その十四)

八月十四日(金)快晴
 昨夜は久方ぶりにぐっすり寝た。夕方待望の簡易ベッドが届いたからである。定価3,900円、送料・代引き手数料込みで4,998円である。ゴルフ・バッグ半分の細さで、重量はおそらく(つまりゴルフなどしたことがないので)五分の一にもならないのではないか。保証書も説明書も何にもないが、バッグから出して広げたらそのままベッドになった。なるほど説明書などいらないわけだ。
 ところがそれが後からの「事故」に繋がった。つまり今朝起きて、布団を調えているときである。何気なくベッドのパイプの上に膝をかけたとたん、グニャリと曲がってしまったのだ。つまりズック地(というのかな、つまりヨットの帆などに使う丈夫な布地)に体重を載せている分にはいいのだが、パイプの部分に体重をかけると、その重さには耐えられないということだったのだ。つまりハンモックの場合なら、端っこにお尻を乗せるとひっくり返るが、このベッドの場合は折れるということだ。だったら説明書にそう書いてておくれよー! しかし嘆いてみても覆水盆に返らず。
 しかしこのままでは惜しいにも程がある。たった一晩しか使ってないのだ。それでそのパイプの部分を外し(幸いそれができた)、家に帰ってそのパイプの空洞部分に入りそうな木の棒を見つけ、それをカッターでちょうどよい太さと長さに削り、それでパイプを補強することにした。先日は外科医に女房の背骨を治してもらったが、今回は私がベッドの背骨を治したわけだ。両方ともグッドジョッブであった。
 いやーそれにしても今日のなんと夏らしい一日だったこと! 今、一日の仕事を終え、頴美が作ってくれたお弁当を、西陽の差す病室で、美子がなにやら機嫌よく両手を目の上にかざして独り言を言っているのを聞きながら、そして見ながら、食べ終わったところである。もうすぐ六時、そろそろ食事車が回ってくるころだ。そら来た! 食事の介助が終われば、今日一日のすべての仕事が終わる。あっ忘れてた。寝る前に、お口くちゅくちゅ溶液を水で薄めて綿棒の先につけ、それで美子の歯と歯茎を掃除してやれば完了である。
 ところで今日の進展は、午後リハビリの先生が打ち合わせに来たことだ。先生と言っても、最近あまり見ないがお笑いで辛口の漫談をやる永井なんとかに似たまだ若い男の先生である。ただし本格的にリハビリを始めるのはお盆明けらしい。そうか、世間は今お盆休みなのだ。
 来週の半ば、川口の娘が孫二人を連れてやっと来てくれることになっている。お兄ちゃんの方は幼稚園児だが、最近では幼稚園でも休み中の登園が何度かあるそうで、今まで来れないでいた。今度は少し長い逗留をしてくれそうなので、三人の幼いいとこ同士が仲良く遊ぶ絶好の機会である。おばあちゃんが入院中なのが残念だが、まっこれから何度もそんな機会はやってくるだろう。
 さて死者の話を続けようか。源一つぁんである。実は彼、婿養子である。つまりウメさん自身が幼くして叔母の養女となり、そのウメさんと結婚するに際して今度は源一さんが婿養子として三本木の戸籍に入ったのだ。だから養父養母とも、姓についてはそれぞれ苦労したわけで、だからせめて一人娘にはその苦労はさせまいと考える、と傍目には思われるのだが、実は逆に、私たちの結婚に際しては三本木姓を名乗ること、しかも私が婿養子になることを強烈に主張したのである。
 つまり私は、職場や仕事では佐々木で通したが、戸籍上は一度は三本木孝となったのだ。もちろん美子や子供たちは三本木姓である。あれは娘が小学校三、四年生のころであったろうか、ある夏、ウイルス性肺炎で当時住んでいた二子玉川の病院に入ったことがある。その娘にうつって私までが入院するはめに。娘と同じ病室に入ってある日、天井を見上げながら来し方行く末をつらつら考えているとき、いやこのままじゃまずい、退院したら一家で佐々木姓に戻ろう、と決心したのである。退院後、養父母にかけあって了解してもらい、確か丸の内の法務省に通って離縁届(と言うのだと初めて知った)を申請した。
 私たちの結婚後五年ほどで福島から養父母を呼び寄せて同居してきたので、法的に養子でなくてもこの先面倒を見てくれるだろうと安心したのだろう。保谷、二子玉川、清水、八王子と私の転勤やらに合わせて文句も言わずについて来てくれた。とりわけ富士山の見える清水は気に入ったようである。源一さんは八王子に来てから体調をくずして入院生活が始まり、最後を迎えたのも病院であった。最後の入院の際であったか、玄関から救急車まで背負ってあげたことを後あとまで感謝された。そんなことは当たり前のことなのに、おそらく長いあいだ、義理の息子と仲良くしたいと望んでいたのであろう。
 私の方は、面倒はみるがなるたけ接触は避けるという、三世代同居のための無難な生活スタイルを最後まで崩さなかったわけだが、いま、あの夏の日、簡素な葬式を済ませて多摩御陵に続く甲州街道の並木道を通って帰宅する際、車窓から見上げた大きな積乱雲の連なりと共に、懐かしい源一さんの姿が甦る。あゝ彼ともっと話し合っておけばよかった。げに後悔先に立たず。それが人生……かも。


【息子追記】他所でこの投稿をご紹介したところ、お世話になったA新聞のH記者様から「孝先生のように人生と向き合いたい、そして文章を書きたい」という最高の賛辞をいただいた。そして、常に熱烈な愛読者で来られた阿部修義様からは以下のようなお言葉をいただいた。H記者様のお言葉とともに転載し、父の魂を慰めたい(2021年3月17日記)。

法政大学出版局発行の『ウナムーノ著作集2 ドン・キホーテとサンチョの生涯』1972年2月25日初版第一刷の訳者紹介に佐々木孝(本名三本木孝)とあったのを思い出しました。

この本はたまに拾読みしていますが、自分が傍線を引いたところを反芻しながら、佐々木先生の人生はドン・キホーテの生涯に通じるものを感じることがあります。

私の個人的な考えですが、「個人の魂の問題」を現代人は等閑にしている警鐘から、佐々木先生は「魂の重心」という言葉を創られたように感じます。そういうこともウナムーノが問われたドン・キホーテの生涯に通じるものを感じます。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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