八月十五日(土)快晴
今日も昨日に続いての快晴である。ということはさしも長かった梅雨は終わったのか、それともそんなものはとっくに終わって、次々と襲ってきた台風の影響でぐずついていただけなのか。いやどちらでもいい、天気が良ければ。
終戦、もとい敗戦記念日である。例の馬鹿な元空幕僚長だかが書いた、核武装提唱論の新聞広告が載っていた。もちろん実戦の経験もない元軍人の妄言である。私と同じ福島県人らしいが、抑止論など想像力のかけらも無い妄想であること、それが止めどない軍拡競争にはまり込む以外に道がないことを見通せない単細胞。
先日飛ばしてしまった菊池重雄さんに話を戻す。佐々木家系譜によると、重雄さんは菊池寅吉氏に嫁した二女たけ(明治34年生まれ、昭和5年死去)の二男ということだ(長男の紀雄さんは昭和19年12月9日戦死)。重雄さんとは、10年ほど前、三女道子伯母さんの二男秋保俊幸さんが秋保家の墓を藤沢に移したとき、奥さんと一緒に名古屋から出てきたときに会ったのが最後であった。
この重雄さんが、中村(現相馬市)の佐々木家最後の日々を一番よく知っている人だと聞いていた。どのような事情からそうであったかは聞き洩らしたままである。堀川の■さんと、いつか機会をつくって一緒に名古屋に行き、重雄さんからいろいろ聞こうと話し合っていたが、その彼が亡くなったいま、いよいよ佐々木家の過去は冥暗の中に消えんばかりである。
もともとは会津から、という話と、伊達から、という伝承とが入り混じっている。たとえば会津から、ということであれば、武士廃業のおり蝋燭屋を始めたのは、もしかして会津に伝わる絵蠟燭の技法を知っていたからでは、という憶測も成り立つ。しかし親族の中に、差し障りがあるといけないので曖昧に言うしかないが、頭骸骨の形や骨格などからどうも白人の血が混じっているのでは、と思われる人がいて、それこそ誰から聞いたのか不明だが、むかし漂流した外国船の船大工の血が先祖の誰かに混入した、などというミステリーじみた話と結びつく。
いまや獄屋にあって明日をも知れぬ命の身なれば(違うかっ!)、かくのごとき証明抜きの、しかし確かに過去人伝てに聞いた情報を、忘れぬようここに記しておく軽挙も許していただきたい。
ところで母方の安藤家あるいは井上家の場合は、私の祖父安藤幾太郎と母の従弟島尾敏雄が、それぞれ多くの闇を残しながらもある程度の輪郭を描いてくれたが、少なくとも私の知る限り、佐々木家は全くの闇に包まれたままである。残された日々、可能な限り先祖の痕跡をたどってみたいが、さてどんな手立てがあるものやら。
ついでに言わせてもらえば、先ほど出たイギリス船だかオランダ船だかの船大工の話はまるで信憑性に乏しい話だが、わが佐々木家の末裔に中国人、もっと正確に言えば満族の血が入ったことを、先祖たちに向かって誇りと喜びをもって報告したい。つまり一歳二か月ちょっとの孫娘愛のことである。
ヤマト民族が単一民族などという全く歴史を無視した妄説を土台とする狂信的で偏狭なナショナリズムの「信仰」とは裏腹に、それこそ柳田国夫の『海上の道』に拠るまでもなく、日本は様々な民族の流れ着いた島々である。いやその前に、たぶん私の中にもその血がわずかながら流れているであろう先住民族アイヌがいる。秋田・新潟美人といっても、それは間違いなくオロシャの血が入っている。
ともかく高村光太郎が言う「根付け」の顔のような、ミイラ化した純粋培養の日本人にこだわる日本文化論など早晩消滅せざるをえないだろう。だいいち異文化・異民族と接触・交流することで純粋性を失うような、やわな文化などもともと文化の体をなさない代物なのだ。
などと思わず比較文明論・文化論へと話が広がりそうなので今日はこの辺で。ともかく満州傀儡国家の唱えた五族協和による王道楽土の理想が、硬直した国家主義を排した形で静かに平和裡にわが佐々木家の中に実現しつつあるのは、なんとも嬉しいことである。そんな連想に走ったのも、従兄Sさんの長男も韓国人の奥さんをもらってアメリカで暮らしているからである。
【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授、)からいただいたお言葉を転載する(2021年3月17日記)。
「抑止論など想像力のかけらも無い妄想であること、それが止めどない軍拡競争にはまり込む以外に道がないことを見通せない単細胞」! When will they ever learn?