H氏からこんな手紙を受け取った。
ブログ稿、拝受。私のは、ご自由にダシにしていただいて、一向に構いません。
当面、大兄の「私のドアを」ですが、正直なところ、まだ「イマイチ」かも?
この詩はなんとか日本語詩で、多くに共有される「形見のような詩」にならないだろうかと私はひそかに願っています。ペソアの思想的立場についてのお説は、まだ考える段階にもなかったので、そういうことなのか、と思いました。私などが、詩のほんの外形を見てあれこれ言ってもとは思いますが、私の受け止めは、信仰がついえてしまった近代人の(とだけにしておきますが)《信仰の回路》をこのように「虚ろ」に証する、死せる魂の挽歌。「私のドアを」は私には近代詩の「名品」の一つと見えるということです。日本語訳に拙いながら、何かを動かす、もうひとつの展開を――
「イマイチ」などと言われて、正直カチンときたが、しかしその後に続いた彼自身の訳をみて、悔しいけど脱帽。わたしにはまだぴんとこないこの詩への思い入れが伝わってくる訳詩である。
私のドアを あんなに執拗に
叩きつづける者よ
知っているのか 私のなかで
応える魂はすでに死んでしまったのを
夜が到来してからというもの
閉ざされた闇のなか
通夜などしたことのない私が ただ虚ろに
寝もやらず ここにいる
知っているのか 私には聞く耳がないのを
知ってか 知らずか
なぜなのだ あんなに倦まず叩きつづける
この世が終る時まで
「応える魂は」や「私には聞く耳もないのを」などは、かなり踏み込んだというか、訳者の解釈が強く反映した訳になっているが、しかしじゅうぶん許容範囲に入っている。再度言うが、私の試訳よりずっといい。
ところでH氏は、この詩を「多くに共有される《形見のような詩》にならないだろうか」と書いているが、その「多く」の中に私自身のっぴきならぬ形で組み込まれているような気がしている。たまたま目の前に、いつ書き留めたか分からぬメモが貼られていた。ここに写して、メモはお役御免とし、破棄しよう。
「宗教は巨大な空洞である。人が信仰という、人間のもっとも美しい理想の一つでもって、それを絶えず埋めていくかぎり、人間が成し得るもっとも壮麗かつ偉大な夢を描くことができるが、それをたんに守ろうとするとき、実にこっけいな、時にはグロテスクな…」
メモはここで終わっている。その先、なにを言わんとしていたのか、私自身記憶にないが、今はただぽっかり開いた空洞を呆然と見ている自分がいることだけは確かだ。