小説書きが最後のピリオドもしくは句点を打つとき、絵描きが最後に絵筆をキャンバスから引き離すとき、作曲家が…えーとこれについては想像できないが、ともかく創作の最後の瞬間のことを言いたいのだが、大いなる逡巡と後ろ髪を引かれるような未練、しかし結局は身を切るような無念と断念のうちに作業を打ち切る。つまりそのとき、最初の一筆を原稿用紙もしくはキャンバスに加えるとき以上の勇気が要求されることであろう。
話をいやに七面倒くさくしてしまったが、言いたかったことはごく簡単、つまり作り手や監督は映画をどう終わらせるかに大いに頭を悩ませるだろうということだ。オルテガは「額縁考」というエッセイで、額縁は現実世界と想像世界の境界線であるというようなことを言ったと思うが、それは空間芸術である絵画の場合である。空間芸術でもあり同時に時間芸術でもある映画において、さしずめそれは映画が終わって映画館の闇から館の外の世界に出るその仕切りであろうか。いやもっと正確に言えば、画面がエンドマークを出して消えるときであろうか。
先日、そうした映画の最後のことを『海辺のレストラン』に触れて語ったが、そのあと終わり方で記憶に残っている一本の映画を思い出した。だが、あいにくそれは私のフイルム・ライブラリー(おや、いつの間にそんな名前を?まっ800本近い映画のストックがあるのだからライブラリーと言ってもいいか)にはないことに気づいた。するとまだ録画する習慣のなかったころにテレビで見た映画か。題名がすぐ浮かんでこなかったが、主役の俳優を思い出した。エリオット・グールド。
そういえば数日前にDVD変換を終えたウーピールーピー、いやウービー・ゴールドバーグの『ザ・テレフォン』という奇妙な映画にもしょぼくれたマネージャー役で出ていた。彼の出演映画を検索したら、その映画の名前が分かった。私の大好きなチャンドラーの小説を映画化した『ロング・グッドバイ』だった。さっそくアマゾンで検索すると、DVDは2千円近くもし、いったんはあきらめようとしたが、楽天でVHSを見つけた。ポイントが千円ちょっと貯まっていたので、結局代引きで120円で手に入ったことになる。
私立探偵マーロー役で有名なのは、『大いなる眠り』のハンフリー・ボガード、そして『さらば愛しき女よ』のロバート・ミッチャムの二大巨頭であり、両者ともいかにもハマリ役で文句のつけようがない。しかしエリオット・グールドの飄々としたマーローもなかなか味があって私の好みである。犯人を追ってメキシコの田舎までやってきたマーローが、その悪党をピストルで平らげ、並木道を帰ってゆくラストシーン、その部分だけ見直してみた。やはりなかなかいい。おそらく『羊たちの沈黙』のラストもこれに影響を受けたのではないか。
要するに主人公が現実世界(少なくとも映画を見ているときは観客にとってもそこが現実世界である)から想像の世界、虚構の世界に戻っていくには、そこへと続く道を歩き去っていくのが一番分かりやすい。つまり向こうの世界へと帰っていくのだ。『第三の男』のラストシーン、並木道でアンナ(アリダ・ヴァリ)は彼女を待つホリイ(ジョセフ・コットン)の前を見向きもせずに通り過ぎて行き、ホリイは一瞬虚構の(正確には虚構の現実)世界にとどまるかのように見え、いま言った定石からはずれるようだが、しかし彼とていずれ彼女の後を追って街道を去っていくことには変わりがない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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