バッパさんの問題は…

本当のことを言うと、毎日施設を訪ねるたびに、といったら大げさだが、少なくとも三度に一度は、他のおばあちゃんたちに申し訳ないな、と思う。うちのバッパさんのように、身内に毎日訪ねてもらっているばあさんなど、他にひとりもいないからである。たいていは、あくまで推定だが、月に二、三度がせいぜいではないか。来たくてもその余裕がないのが普通であろう。
 一昨日はひ孫の誕生日で自宅に帰って昼食、昨日は横浜の孫娘が訪ねてきた。思い起こせば、退職後の自由気ままな一人暮らしのあいだ、訪ねなかった県は二県だけというくらい、日本中を駆け巡った。自分の金での旅行三昧だから文句もつけられないどころか、ご立派と褒めるしかない。で、もうすぐ九十八歳。特に病んでるところもなく、いっときよりは歩行がおぼつかなくなったとはいえ、押し車を使ってなら施設の中を歩きまわれる。冷暖房完備の六畳の洋間に洗面台やベッド家具つき(最近ポータブル・トイレが加わった)、しかも四六時中スタッフが世話をしてくれる。
 雨の日も風の日も欠かさず毎日訪れる息子夫婦(つまり私と妻)が言うように、ここを離れ、あるいは隠居部屋とみなして、ゆっくり愉しく毎日を暮らすように、他の入居者とも仲良く、そしてスタッフには可愛がられるように、との願いもこのところ怪しくなってきた。
 だから今日は、ちょっときつい言い方だが、バッパさんにこう説教した。「ええか、ここにいる美子など、自分でお茶を飲むこともできない、本も読めない、テレビを見てもよく分からない。でもね、バッパさんのように一言も不満を口にしない。いや美子だけじゃなく、ほれそこにいるSさんのおばあちゃんなどは、車椅子の上でいつもニコニコしてるだろ。たぶん娘婿が病気とかで、このところ娘さんが会いにくることができないらしいよ。
 またもスタッフに、家に帰りたいなどと泣き言を言ったらしいけど、バッパさん、ここには一時的に世話になってるが、いずれは家に帰ろうなどと思ってもらっては困るよ。ともかくここに入所したときの心構えに戻って、改めてここを…(終の棲家と言おうとして、さすがにそれは思いとどまった)隠居部屋と心得て、どっしり腰を落ち着けてくれなきゃ困るんだよ…」
 98歳の老母が、ひ孫たちのいる「我が家」に戻りたいというのは当然の願いだろう。しかし介護その他のことを考えると、どうしてもそれは無理。私たち夫婦が毎日訪れるのは、バッパさんが寂しい思いをしないように、との理由からだが、皮肉なことにそれがかえって裏目に出て、いつも心ここにあらず、という気持ちにさせているわけだ。
 いやこれはバッパさんだけの問題ではない。あと十年もしないうちに、それは私自身の問題になるのだ。体の自由がきくうちにポックリ死ねればいちばんいいのだが、体の自由が利かなくなったらどうするのか。息子夫婦の世話を受けながら自宅で頑張るのか(少なくとも今はそれは絶対避けたいと思っている)、それともバッパさんのように施設のお世話になるのか(たぶんそうするだろう)。
 いまは何もはっきりした考えは持っていない。ただ唯一願っていることは、美子より一時間でも長く生きて彼女の世話ができること、ただそれだけである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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