そこ(わが幻の代表作)では主人公は現実の私とは別人である。もちろん彼を肉付けするものは、私の貧しい過去の体験であるが、今回は(今回は、だって?)それを大きく膨らませる。つまりそうありえたかもしれないこと、あるいは願っていたのにそうは出来なかったことなどを、思い切り自由に羽ばたかせてやるのだ。主人公を造形するにあたっては、ペソアの異名者たちのあり方が参考になるかも知れない。つまりいわゆる作者の分身というのではなく、なかば(?いや全部かも)作者とは異なる存在者である。
これまで気になりながら一向に手をつけてこなかった問題が、この小説の中心的テーマになるであろう。すなわちキリスト教との関係である。彼は私と同じく、修道会に入る。そして私とは(大きく)違って叙階される。さて任地はどこか?
かつての現実の私が中間期(つまり修練期と哲学コースのあいだの期間)に熱望したように、ブラジルやパラグアイなど南米の日本人コロニアに赴くかも知れない。いやそれは無理か。一度でも彼の地に住んだ経験が無ければ書けないであろう。
いやその前に、つまり神学生時代に、島尾敏雄や埴谷雄高、小川国夫や安岡章太郎さんたちに出会ったこと、また死刑囚の正田昭さんなどと交流したことなどを材料にして、文学論を……
ベルナノスの『田舎司祭の日記』やモーリャック、グレアム・グリーンやA. J. クローニンなど、かつて愛読した作家たちの作品を改めて読み直し、それらを批判してみたい。G. グリーンの『キホーテ神父』はまだ読んでないが、読む必要があるのでは?
彼を最後まで、つまり私が生きてきた年月くらいは生かすつもり?いやそれだと、結局自分に近づいてしまうし、苦しく(?)なるのではないか。むしろ40くらいで死なせては?何で?病気か事故で?
いやいやそんなことより、問題は彼とキリスト教信仰のかかわりがどうなるか、だ。ダニエル・ベリガンのように、最後までイエズス会士でありながら教会や修道会に対する批判者とするか、それともイリッチのように教会と決定的に対立して司祭職を剥奪されるか。あるいは表立って対立することはしないが(臆病だから?)、しかし癒すことのできない懐疑と失意と絶望、そして信仰喪失のうちに死を迎えるか?
さて、死ぬまでそんな作品を作ることが出来るか。まだ大事なことを言ってない。つまり主人公は異名者ではあるが、私自身が今現在感じていること、そして死に向かう過程でこれまでの総決算として考えることを語るであろう、いや語らなければならないであろうのは確実である。
要するに、肉体や知的な面での衰えの中に生きていくこの私の、いわば伴走者として異名者を徐々に作り上げていくことで、残された時間を有効かつ建設的に使っていきたいのだ。
そう、以上が私の白昼夢の内容である。夢で終わらせるか、それとも実現させるか。こう書いた以上は、完成するかどうかはともかくとして、その方向に向かって歩き出さねばならないであろう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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