机の上、机脇の手作り移動式小型本棚、床の上、いたるところに本が雑然と積まれている。階下の本棚にうまく整理すれば入らないことも無いのだが、なぜか億劫でそのまま何ヶ月にもなる。理由の一つは、美子を一人にして座を外すことが何となく心配だということもあるが、要するにものぐさなのだ。
本当は十日ほど前、オルテガの『大衆の反逆』の原注を含めてすべての訳稿が編集者校正を経て送り返されてきたので、それらを参考に最終稿を仕上げなければならないし、そろそろ解説も書かなければならないのだが、その方は延ばしのばしして、相変わらずつまらぬ仕事に精を出している。今日も午前中、たまたま目に入ったアンネ・フランクの英訳日記(ポケット・ブック版)があまりに汚くなっているのが気になり、装丁をし直した。つまり汚い表紙を剥ぎ、新たに固いボール紙で表紙を作り、それにオレンジ色の布を貼ったのである。切り抜いていたアンネの顔写真と表題部分をその布表紙に貼って完成。
そんな仕事とも言えない仕事をして何の意味があるのか、と言われれば返す言葉もない。ただ今日はそんな作業をしながら、やはり本の山の中から、これまた偶然に手に取った小川さんの『遊子随想』(岩波書店、1989年)を読み続けた。正直言うと、今まで小川さんのエッセイに特に感心したという記憶はない。しかし今度のには感心した。1985年から88年にかけて「静岡新聞」に隔週連載されたエッセイらしい。
その時期は、私たち家族が静岡に住んでいた時期に重なるのだが、そして「静岡新聞」も取っていたはずなのだが、一向に覚えていない。それはともかく、感心したのはこのエッセイの伸びやかで初々しい(いや瑞々しい)とも言える筆致だ。読んでいたのは「永遠の都へ」という単車を駆ってのスペイン旅行のエッセイだが、私一人の、あるいは家族を連れてのスペイン旅行に重なって、その時々の空や海や大地のかおり、色まで思い出した。
表題の「永遠の都」とはローマのことではない。ヘミングウェイがそう称んだマドリッドのことである。「永遠の都」の最後はトレドで終わっているが、マドリッドでのプラド美術館見学のときもそうだが、エル・グレコの町トレドでは、彼が絵画に対して尋常ならざる興味と関心を持っていることに改めて気づかされる。私などは美術館巡りで感動したことはなく、ただせっかく来たのだから見なければならないとの義務感と疲れしか残らないのとでは雲泥の差である。
たとえば「オルガス伯の埋葬」のところでは「小さな聖堂は、グレコの洞窟とでもいうべきだった。私は稀有な体験をした。絵にあれほど圧倒されたことはない」と語っている。
先ほどは伸びやかで瑞々しい筆致などと書いたが、驚くべきはこの紀行文が実際のスペイン旅行から33年も経って、つまり彼の60歳台前半に書かれたということである。彼のスペイン贔屓、というよりスペインに対する深い愛に今更のように感服した。こんなことなら、彼ともっとスペインについて話し合うべきだった、と残念に思う。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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