やらなければならない仕事があると、なぜか無性に他のことがやりたくなるのは困った性癖だが、死ぬまで直りそうにもない。オルテガの完成稿のことが昨夜から頭を離れず、だから当然のように今日は別のことに精を出した。アンネさんの本の直ぐ下にアガサさんがいたのだ。しかも二冊も。もちろんアガサ・クリスティ女史の本である。しかもそれは英語版でもなければ日本語版でもなくスペイン語版なのだ。
スペインには優れた推理作家は、少なくともつい最近まではいなかった。むかし授業の合い間の与太話で、なぜスペインには推理小説が生まれないのか、を説明してこんなことを言ったことがある。なぜ生まれないか。たとえば殺人事件が起こるとしますね、さあ警察が駆けつけます、事件記者が血の臭いを嗅ぎつけてやってきます。でも現場には死体の側に血塗りのナイフあるいは出刃包丁を持った男もしくは女が呆然と立っているのです。
つまり霧深いロンドンでの綿密に練られた計画犯罪など満天の星の下では、直情径行の情熱犯罪しか起こらないからです。犯人がそこに突っ立っているのですから、灰皿の上のタバコの吸殻、じゅうたんの上にかすかに残る犯人の足跡など虫眼鏡で追う必要がどこにありましょう……。
めぼしい推理作家がいないとはいえ、血の気の多いスペイン人が推理小説が嫌いなわけはない。この「金の図書館叢書」にもアガサ・クリスティの作品が81冊も翻訳されている。手元にあったのは、そのうちの2冊、つまり『茶色の服を着た男』と『スタイルズ荘の怪事件』である。前者は表紙裏に鉛筆で薄く娘の名前が書かれているので、たぶん彼女が授業のテキストとして購入したものであろう。それなら担当教師は? すぐ見当がつく。
ついでにわが貞房文庫にクリスティの本が何冊あるかを調べてみた。スペイン語版2冊以外に英語版2冊。そして邦訳がなんと37冊もあった。もっとも、これらはほとんどがかつて娘が読んだものである。推理小説が大好きな両親の血を色濃く引き継いでいる。
ちなみに、私自身がクリスティにはまったのは、『アクロイド殺し』以来である。読後相当に興奮したことを半世紀以上経ったいまもはっきり覚えている。そして蛇足ながら、例のスペイン語版2冊は、いつものように合本にされ、品のいい緑色の布表紙の特装本となったとさ。めでたしめでたし
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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