薄暗い店内、何かの集会のあと、銀座のこのバーに流れてきた。まさか修道士のままの私を連れてくるはずもないから、あれは退会してからのことに違いない。先導したのは吉行淳之介さんか奥野健男さんのどちらかに違いない。会話をリードしたのは吉行さん。初対面の私のことを敏雄さんに聞いて、「あゝ身内の…か」と言った。何と言ったか覚えていないが、なにかいやな感じがしたのだけは記憶にある。はて、何と言われたのだろう。ただ吉行さん自身の印象が悪かったわけではない。女給(なんて言わないか、つまりホステスのこと)のあしらい方も堂にいっていて、いやらしい感じはしなかった。
確か金沢時代の思い出を語りながら、当時執筆中の作品の時代背景を知るため、その当時の新聞や雑誌だけを集中的に読んでいた時期があった、と五木寛之が語っているのをどこかの雑誌か新聞で読んで、なぜか強く印象に残っている。あゝそうか、今生きている時間をそのように使ってもいいんだ、と変に感心したわけだ。
註文していたパール・バックの『大地』三部作、すなわち『大地』、『息子達』、『分裂せる家』が届いた。着いたら、父が読んでいたであろう状態のままの外観を鑑賞したのち、布で装丁をし直すつもりだった。80年近くもむかしに出版されたものであるから、まさに古色蒼然の感は否定できない。しかし布表紙の、なかなか趣のある装丁で、これならこのまま大切に読んでいった方がいいと判断した。白地に墨絵風に描かれた植物(小麦あるいは高粱?)もいいし、四角の中の農夫や牛の絵も素敵である。Ebihara と署名があるので、ネットで調べると、大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍した海老原喜之助らしいと分かった。
今朝方見た夢。これまでもときどき夢の中を走っていた何本かの路線のうちの一つに、そのときも乗っていた。乗り換えを間違えて、とんでもない遠方まで行ってしまう路線に乗ってしまったようだ。電車の中は通学や通勤の乗客たちで立錐の余地も無い込み方をしている。窓の外を見ると、夕陽に照らされた桃色のサイロみたいなものが遠くに見え、都心のはずなのになんでサイロが、と思ったが、近くにいた女子学生が、あれはこないだ……たちがロケで使ったところよ、などと話している。いま売り出し中の若い男だけの歌のユニットらしいが、聴いたことの無いグループだ。すこし遠回りになってしまうが、こうなればじたばたしても始まらない。美子も夕食が遅くなると文句を言うかも知れないが…と思ったとたん、大変なことを思い出した。そうだ美子は一人じゃだめなんだ、電灯もストーブも点けられないし、トイレにも一人で行けないんだぞ。どんなに心細がっているだろう、と血の気が引いていくのが自分でも分かった。あまりの動揺のためか目が覚めた。しばらく悲しさが消えなかった。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 【再掲】「サロン」担当者へのお願い(2003年執筆) 2023年6月2日
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日