ポール・ムニを求めて

「王龍(ワン・ルン)の結婚の日であった。しかし、寝台を囲むくらい帳(とばり)のなかで眼を醒ましたときに、彼は、なぜこの朝が毎時(いつも)の朝と違ふ気持ちなのか、最初、考えつかなかった。家のなかは静寂で、中の間(ま)を隔てた老父の部屋で、力のない、嗄れた咳嗽がするだけであった。」

 『大地』の第一章「妻を迎へる日」の書き出しである。もちろん旧かなであるが、ルビがふってあるので、そう読みにくいことはない。いやむしろ飛ばし読みが意外に易しくできるのだ。つまりかなが多いと、日本字がまさに表音文字化していて、きっちり読まないと意味が取れないのに反し、漢字だとちょうど物そのものがごろんとそこにある感じで、むしろ意味を取りやすいのである。「咳嗽」などという難しい漢字にルビがふってなくともなんとなく分かるのも漢字の威力であろう。自慢じゃないが、私は「がいそう」と正しく読めたが。
 ところで訳者序文によると、新居氏は1934年初夏、南京にパール・バック女史を訪ねたそうである。しかし彼女は『大地』の映画化に関して、現地に入ったM. G. Mと南京政府との板ばさみにあって「不機嫌」となり米国に帰国した後だったらしい。
 そこで初めて映画化の事実を知った。それでは、とアマゾンを検索。ありました、ありました、しかもDVD新品で400円。さっそく注文。1937年製作、監督はシドニー・フランク、知らない、そして出演者の名前を見ていくと、なんと主人公の王龍を演じるのは懐かしいポール・ムニなのだ。今だったら、主役級の登場人物であってもすべて中国人俳優を使うであろうが、当時はアメリカ人がメイクアップの限りを尽くして中国人を演じたのであろう。
 ところでポール・ムニをなぜ懐かしいと思ったのか。どんな映画で見たのか。ウィキペディアで彼の顔写真を見たが覚えが無い。考えていくうち、彼に関連するいくつかの言葉がぼんやりと浮かんで来た。もしかするとG. グリーンの『拳銃売ります』に出ていたのでは? といって私はその映画を見たわけではない。それにネットで調べていくと、確かにその小説は1942年に映画化されたが、原題の A Gun for Sale This Gun for Hire と変えられており、しかも主役はあのシェーンのアラン・ラッドで、配役の中にポール・ムニの名前が見当たらないのだ。
 ポール・ムニは現在のウクライナのユダヤ系の家に生まれ、7歳のときに家族でアメリカに移住。両親はイディッシュ演劇の俳優だったらしく、彼も始めはイディッシュ語の舞台に、ついでブロードウェイに進出、さらに映画にも出演したが、ギャング映画『暗黒街の顔役』で一躍スターダムに踊り出る。アカデミー主演男優賞など数々の賞を受けたそうだ。ちなみにあのマーロン・ブランドがもっとも尊敬する俳優だというから演技力は相当なものなのだろう。

 いやいやそんなことより、私のポール・ムニ探索は途切れたままである。彼の出演作品のどれも見たことがない。果たしてどこで彼の名前に出会ったのだろう。『大地』を見ているうちに思い出すことを期待するしかない。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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