プラハ再訪(続き)

さて三人の同級生はその後どうなったか。そのいちいちを述べることは省略するが、いずれも東欧の激動の波に翻弄されていた。特にユーゴスラビアの少女は、それまで自分をムスリムと意識していなかっただけに、悲劇的な体験を強いられることになる。
 いま東欧の激動などと曖昧な表現を使ったが、実はほとんど知らないままにきた。いい機会だから、この際少し調べてみることにした。データは「ブリタニカ国際大百科事典」からのものである。
 まずユーゴスラビアだが、91~92年にかけての解体・再編に伴い、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアという四つの共和国として分離・独立し、セルビア(ボイボジナ、コソボの二つの自治州を含む)とモンテネグロの二つの共和国が(新)ユーゴスラビアを作った。2003年には国名をセルビアーモンテネグロに改称する。
 次にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のことだが、1992年3月のボスニア・ヘルツェゴビナ独立を機に勃発した、国内に居住するムスリム(スラブ人のイスラム教徒)、セルビア人、クロアチア人の武力衝突のことである。独立に賛成するムスリム、クロアチア人勢力と、反対するセルビア人勢力とが衝突したが、次第にムスリムとクロアチア人勢力の対立も生じ、三つ巴の内戦となった。国際連合の仲介も功を奏さず、1995年末、セルビア人勢力に対する北大西洋条約機構NATO軍の空爆が実施され、セルビア人勢力は大きな打撃を被った。死者20万人、難民250万人を出した末、1995年11月アメリカの主導で紛争3当事国の代表がアメリカのデートン空軍基地に集まり、その合意により、国連と多国籍軍の監視のもとで、ムスリムとクロアチア人の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(領土の51%を管轄)とセルビア人の「セルビア人共和国」の2政体からなる一つの主権国家統一ボスニアが目指されることになった。
 ということだが、あまりに複雑でまだ状況が見えてこない。それはおいおい調べていくことにして、米原万里のプラハ再訪に話を戻そう。
 三人の同級生がどのような生活をしてきたか、カメラはぶっつけ本番でその後を追うのだが、なにせ三十五年も前に別れたきり、消息がなかなかつかめない。たしかユーゴスラビア出身の女性の後を追っていたときだと思うが、土地の老人が動乱の顛末を寓話仕立てで説明してくれる場面があった。昔むかし、出身民族も奉ずる宗教も違う人たちがまるで兄妹のように仲むつましく暮していましたとさ。ところがあるお大尽が、それぞれの耳元に他の人の悪口を次々とささやいていったとさ。するとそれまで仲のよかった人たちが喧嘩を始めました……
 どうもうまく書けません。大事なところですから、明日もう一度録画を見直して、もっと正確にご報告しましょう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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