『国家の品格』が届いた。2008年発行の新潮新書、第48刷である。初版が2005年ということだから、凄まじい売れ行きである。先日は彼の母ていが『流れる星は生きている』の作者だと書いたが、後で調べると父は、何と!やはり作家の新田次郎であることが分かった。そして1943年旧満州新京の生まれたとあるから、私より四歳も若い。それにしては言っていることがなぜこんなに古臭いんだろう。
講演記録をもとに執筆したということだが、すこし読んだだけで論の進め方、例の引き方が実にいいかげんで恣意的であり、文章自体も「祖国とは国語」を主張する人のものとしては実にお粗末である。それにこの人は利口なのか馬鹿なのか分からない人で、自分の致命的な欠陥を実にあっけらかんと披瀝している。「はじめに」の最後に「品格なき筆者による品格ある国家論、という極めて珍しい書となりました」と書いているが、それだけ分かっているならこんな本を書くなよ、と言いたくもなる。
要するにまともに相手にするまでもない駄作であるが、そこがまた怖いところである。つまり内容のない歌謡曲が、その旋律の「当たり前」さゆえに、聞く人がいつの間にか鼻歌まじりに歌ってしまうようなところがある。たとえば「ゴーマニズム宣言」とかの小林よしのりのような扇情的で危険な臭いは発しないのだが、それだけに質(たち)が悪い。
利口なのか馬鹿なのか分からない、と言ったが、実際は学校の成績がかなり良かったことを自慢している。自分がエリートであることを一瞬も疑わないいわゆる優等生タイプの人間に、ときおりびっくりするような幼稚性を見せる奴がいる。キッチリ読むつもりが、あまりのお粗末さに飛ばし読みしながら思い浮かべたのは、私の教師生活の最後あたりに出会った似たタイプのエリート教師の姿である。カトリック右翼のその男もエリート・コースをひた走ってきたのであろう、自分がエリート中のエリートであることをどんなときにも忘れない男だったが、あるときとんでもない暴言を言い放った。
つまり経営難に陥っていたその大学(女子大)再建のためには、卒業生を外国の金持に嫁がせて、その相手から寄付金を募ったらいい、などとまじめに提言したのである。教授にも、這い上がってきた教授と、自分のように超エリート・コースを歩いてきたものと格の違う二種類の教授がいることを臆面もなく主張したこともある。
格! しかし品格といい格といい、それは自分から言い出すものではなく、人様から自然と評価されるもんとちゃう? ミシュランの星だって、自分から言い出したらとんだ笑い者になるべさ。
はっきり言おう。藤原正彦の言っていることは「論理よりも情緒」を主張する御仁のことゆえ、とんでもない誇張や論理破綻はとうぜんあるが、茶飲み話として聞く分には相槌を打っていいものもないことはない。しかしこの本のまさに核心部分である国家の品格に関しては、盲目的なパトリオットつまりナルシストでないかぎりとうてい首肯できるものではない。
それにしても良く売れてること! で、叔父さんには、何と言って渡そう?
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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