大地震のあと時おり揺れを感じることが続いている。気のせいかな、と思うこともあるが、たいていの場合は実際に揺れている、あるいは揺れていたことが分かる。この間の大地震のあと、地殻がまだ坐りがよくないので、ときどき居ずまいを正す風に揺れるのだと思いたいが、それにしては先日に続き今日の揺れも相当なものであった。地震の専門家が、今度の地震は以後一月ばかりは大小取り混ぜて執拗な余震が続くと言っていたと思うが、正直もうイヤ、もうタクサンと言いたい。
特に地震があった今日の夕方など、どんよりとした雲が空全体を覆い、このまま世の終わりを迎えるのでは、などとあらぬ考えが頭を過ぎった。なんだかグレゴリアン聖歌の「ディエス・イレ(Dies irae)怒りの神」が響いてくるような気がした。というのは真っ赤な嘘というか言葉の綾(あや)。そんなに都合よくバック・ミュージックが流れるはずもない。ところで今、柄にもなく終末論的なことを話題にしたので、今日は自棄(やけ)のやん八(ぱち)、このまま突っ走らせてもらいます。いわば私の取って置きのネタのスイッチが入ってしまいましたので。
ご承知のように、終末論とは特にユダヤ教やキリスト教にある、人間や世界の終末についての思想です。英語に限らずフランス語などヨーロッパ語ではおおむねエスカトロジー(eschatology)と書きます。どん詰まりということでは糞尿と同じなのですが、まさか崇高な宗教思想を糞尿と一緒にするに忍びないと考えたのか(ここらあたりは単なる推測であって、言語学的正確さからは外れます)、二字ほど削ってスカトロジー(scatology)と表記します。煎じ詰めれば(ねっ、やっぱし詰めるでしょ)同じことなのに。だって犬の糞など踏んで、あゝこれで運も尽きたって言いません? 言わない? あっそう。
ところが、ヨーロッパで唯一、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教が深く交じり合った歴史を持つスペインでは、ちょっと事情が違うんであります。つまり悪く言えば糞味噌一緒、終末論も糞尿譚もともに escatología と書くんですわ。嘘だと思ったら辞書を引いてごらんなさい。
サド侯爵の国フランスには、大脳皮質かなんかを微妙に刺激する官能的な文学がたくさんありますが、スペインにはそのものずばりのポルノはあるかも知れませんが、フランス風の官能小説はあまり発達しませんです。代わりに、『ドン・キホーテ』にはサンチョが太い木につかまって脱糞する場面が…おっと、実際にあったかどうか自信がありません、調べようとすればすぐ調べられるのですが、ちょっと面倒です。
それなのに、スペイン・中南米文学の大家であられる或る大先輩が、私の書くものの中に時おり糞尿譚が入っているなど非難するのであります。(あゝそこが話の本筋か)。ところが私にとっては出るか出ないか、が大問題なのです。妻は言葉で意志表示ができません。ですから便器に坐らせても、それが大なのか小なのか、分からないのです。空しく十分くらい待って、結局何も出ないことだってあります。だから耳を澄ませて、あっ今は小の音だ、あっ今度のは大が水に落ちる音だ、と判断しなければなりません。そのときの喜び、分かります? 寅さんの「四谷、赤坂、麹町、ちゃらちゃら流れる、御茶ノ水…」という口上ではありませんが、私にとって、一日のうちの大仕事がそのとき無事完了するのであります。
これは下品だとか柄が悪い(同じことか)とかの問題ではなく、正に最重要の一事なのであります。私にとっては、すべてがこの一事にかかっているのであります。うまくいけば(出れば)、その日は祝福されたも同然、もう矢でも鉄砲でも持って来い、と肯定的な気分が全身を駆け巡るのであります。
先日も便所の中に一緒に居るときに揺れが始まりました。一瞬、ここで死ぬのはイヤだ、と思いましたが、でもここで終末を迎えるのは時宜にかなったことかな、とも思ったのであります。地震よ、大地の揺れよ、汝など我ら夫婦の終末に較ぶれば、なんぞ怖るるに足らん!
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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