私の湯沸かし器は何シーベルト?

大震災前から美子の歩行が少し覚束なくなっていた。それだけでなく、歩くときも椅子に坐るときも、体を右に傾げるようになっていた。一昨年の夏に脊椎損傷で六時間に及ぶ大手術が成功して、歩くことさえできればなんとかなると思ってきたのに、ここにきてそれが怪しくなってきたのだ。町の西手に新しくできた整形外科のクリニックが診療を再開したらしいと聞いていたので、昨日電話してみると、テープの自動音声が十八日からの診療再開を告げていた。まだだったわけだ。そこでまさかやっていないだろうと思っていた大町病院に「だめもと」で電話してみた。するとなんと今月の四日からやっている、しかも整形外科では、美子の手術を担当したS医師とI医師が二人で外来を診察しているという。知らなかった!
 今日は朝から上天気、気温も上がってきた。朝食後、さっそく病院に行ってみた。正面玄関は閉鎖され、出入り口は西側の、通常は救急入り口が臨時の玄関になっていた。しかし中に入ると、待合室も廊下もいつもの賑わいを見せている。だが整形外科前の廊下で待っているあいだの会話の内容はもっぱら津波被害や避難所暮らしの辛い経験についてのようだった。思ったよりも早く順番がまわってきた。S医師と久し振りの挨拶を交わしたあと、触診をしてもらう。心持ち右肩あたりが凝っているようだが、念の為レントゲンを撮ることになった。しかしかなり時間が経つのに、レントゲン室の扉が開かない。ちょっと心配になったが、やはり美子が指示を理解できないので、ちょうどいい姿勢が取れなかったためらしい。
 さてレントゲン写真を見ながらS医師の再度の診察となったが、やはり手術跡には何も問題ないが、脳の方を調べてもらっては、と内科検診を勧められた。このまま経過を逐次ご報告するまでもないので、結論から言うと、その後、脳のCTスキャンをしてもらい、内科のS医師がそれを見ながら説明してくれたが、認知症がかなり進行して、前頭葉や海馬に隙間ができている、という。脳神経外科(?)でさらに詳しく診てもらっては、と言われたが、効く薬がない以上、それ以上の診察は必要ないと判断した。ともかく体を動かすことや、テレビなどいろんなことに興味を持たせるように、と勧められた。そのとき、S医師のカルテに「東京新聞」のコピーが挟まれていることに気づいた。整形外科のS医師に、いわば挨拶代わりに、というか、応援のつもりで、先月22日号に佐藤直子記者が書いた記事を渡したのだが、他の同僚医師たちにもさっそくコピーを回してくれたようだ。
 ともかく外科的な問題でないことが確かめられて、ひとまず安心した。
 さて帰宅して昼食後、新しい気持ちで(?)散歩に出たのだが、その前に寄った郵便局で、久し振りに我が瞬間湯沸かし器が沸騰する事件が起こった。簡単に言えば、昨日相馬局に来ていたはずの娘からの軟膏入りのゆうメールが、取りに行ってくれた西内君にはまだ来ていない、と答えたのに、実は来ていましたと直後に電話が入った。それだけでも頭に来ていたのに、今日は九時には原町局に届くように手配しますと言ったのに、私が行ったときに、またもや何も届いてません、と言われたのだ。瞬間湯沸かし器がそのとき沸騰、さあ何キロシーベルトになったかは分かりません。「何言ってんだい!もう一度見て来い……」その後何て言ったか覚えてませーん。
 そしたらしばらく後に極まり悪そうに持ってきましたよ、薬の封筒と、さらには佐藤記者が送ってくれた「東京新聞」の束を! 渡すときに、またもや印鑑かサインを、と言うので、湯沸かし器の再沸騰! 「あのねーあんた方はお客さんに郵便物を届けるっちゅう一番大切なことをしないでいて、ハンコハンコとちっちぇー仕事はまじめにやるん? しっかりしてねー、サービスサービスって言ってたのどこのドイツ? えっーえっー!」 二回の沸騰で湯沸かし器の方もどこか蒸気が漏れたんでしょうか、シューシューと言葉になりませんでした。
 でもその後に寄った夜の森公園の桜は、いつの間にか七分咲き。きれいでしたぜー。どこかのおじいさん(と言っても、私と同年配か)、避難所でさんざん苦労して帰ってきたけど、桜は今年も咲いてくれましたねー、とニコニコ顔。ほんにそうだ、人間界の馬鹿騒ぎ(いやこれは地震・津波被害のことではありません、ゲンパツ騒ぎの、それも迷惑をかけた、いやまだかけ続けているヤツラのことでござんす)を横目に、自然は例年のように嫣然たる笑みを浮かべているんでごぜえやす。ありがたいっすねー泣けますねー。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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