昨夜、八木沢峠のことを思い出したついでといったらなんだが、その峠を越えて福島に向かう最初の集落である飯舘に中学時代の同級生がいたことを思い出した。中学の同級生といっても、たいていは町場の商家やサラリーマンの子が多かったが、彼女は珍しく飯舘の農家に嫁いでいったのである(もちろん大昔のこと)。2002年に相馬に戻ってから2回ほど同級会があったが、そのどちらにも彼女は元気な姿を見せていた。私自身は一度は八王子に終の棲家を定めたのであるが、いろんなことがあって思いがけなくばっぱさんが一人暮らす相馬に戻ってきた。いまでもそれが大正解だったと思っている。その最大の理由は、人生の最終コースで、中学時代や高校時代の友人たちの側に住み、会おうと思えばいつでも会える幸福というか贅沢が味わえるからである。
つまり私もあやうく、地方出の人間のお決まりのコース、すなわち大都会の片隅にやっとこのことで自分の居場所を確保し、親が生きている間は年に一、二回、親が死んだ後は、たまの墓参りに帰ってくるだけというコースからはずれたのである。
いろいろなことがあって、とぼかしたが、隠すまでもない。それまで続けて来た大学教師の仕事が、簡単に言えばアホらしくなったのである。私の勤めていた大学だけじゃないが、要するに大学志願者数の漸減というより激減にともなって巻き起こった大学経営陣の、そして最後は教師そのものの中の「貧すれば鈍す」式のモラルの低下、建学の理念なんぞどこ吹く風の、なりふりかまわぬ周章狼狽ぶりにまったく嫌気がさしたのである。
おっと、飯舘から離れました。いま彼女はどうしてるんだろう、と気になり、電話してみたのである。どうしてたー、避難してたのー、というのが彼女の最初の言葉である。最初から動かなかった、という答えに、そうだよね、原町は放射線値低いんだもの。彼女は最初は、運がいいわねー、と言われたそうである。なぜなら彼女の実家は津波で流されてしまったからだ。どなたか亡くなったの、と聞こうとして辛うじて踏みとどまった。ともかく彼女は、最初のうちは運が良かったと思ったそうであるが、次第にそれも怪しくなって、あれよあれよという間に計画的避難区域に指定されてしまったのだ。
お宅は酪農もやってたの、と聞くと、それはやってなかったけれど、畑は植え付けもできずに放置していくしかないそうだ。高校生の男の子もいる(彼女の孫だろう)ので、結局明日、喜多方(もしかして須賀川と言ったか?)に借りた家に越していく予定だそうだ。牛を飼ってなかったのは(飯舘牛はブランドになっている)不幸中の幸いだが、しかし長年耕してきた畑とて、別れていく辛さは同じだろう。サラリーマンと決定的に違う、大地に密着した生き方である。
いつか必ずまた土地が使えるようになるよう、微力ながら応援していくから、それこそ叡智を尽くしての土地回復作業が行なわれるよう、運動を盛り立てていくから、という頼りない励ましの言葉には答えず、またそのうち同級会で会いたいね、と言う。耕作可能な土地になるまで、いったいどれだけの年月を要するのか、まだだれも具体的な方策も、その期間についても明快には語っていない。
首相以下政府の要人たち、そして東電(あっ思い出した、このブログでお友だちになった澤井哲郎さんによれば東電は盗電と書くそうだ。もらったそのアイデア!)の連中には、あのベコたちの悲しい眼が、絞った乳を捨てなければならない無念さが、長年命を吹き込むようにして耕してきた畑を、放射能という不気味な毒素に侵食されて手放さなければならない辛さが、おのれの存在そのものがもぎ取られるほどの痛みが、「わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~」(南相馬市の警戒区域出身の松鶴家 千とせ(しょかくや ちとせ)の一世を風靡したギャグだが、彼はいまどうしているんだろう?)
明日村を離れていく彼女の一家の悲しみが、じわじわと私にも伝わってくる。負けないで下さい、くじけないで下さい、また絶対に飯舘に帰ってきてください、そしてまた同級会で元気にお会いする日が来ますように!
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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