分校校長の始業の挨拶

夕飯の準備をしながら、通りがかりに見たテレビで、福島市のどこかの高校で間借りしながら今日始業式を迎えた県立相馬農業高等学校飯舘分校(本校はわが南相馬市にある)の校長が式辞を述べている。「…今日の始業式を多くの人たちのおかげで迎えることができました…」、その前になんて言ったのか、そしてその後、なんと言葉を続けたのかは知らない。だからこれから書くことはまったくのフィクションであることを予めお断りしておく。そう、校長の名前を富士貞房とさせていただこうか。

 …さて皆さん、ここまではふだん私が始業式で話す挨拶の言葉です。しかしここからは今年の始業式の本当の意味を、校長としてばかりでなく人間・富士貞房としてお話ししたい。来賓席には国や県の偉い方々が参列しておられますが、その人たちにはおそらく耳の痛い、いや不愉快なことも言わなければなりません。
 今日から高校生活を始める新入生も含めて、みなさんには国が定める成人にはまだ間がありますが、しかし物事の道理、正不正についてはじゅうぶん理解できる年齢です。今回の大震災、とりわけ皆さんの村に降りかかった不幸な出来事については、今さらその経緯をお話しするまでもないでしょう。皆さんのお家で、ご両親が、おじいちゃんおばあちゃんがこれまで毎日話し合ってきたはずですから、皆さんもいま村に何が起こっているのか、じゅうぶん知っていると思います。
 先祖伝来の土地や家屋や家畜、つまり私たちのこれまでの生活一切合財を、国のエネルギー政策の失敗から、手放さなければならなくなりました。村にいつ帰れるのか、まだまったく分かりません。私はいま「失敗」という曖昧な言葉を使いました。つまり原発に依存する国のエネルギー政策そのものが間違いだったのか、それとも今回の事故は、未曾有の地震・津波の結果、運悪く起こった事故なのか、「失敗」という言葉そのものは何も言ってません。しかし今回の事故はその発端が地震・津波であったとしても、人間が作った施設の事故であるという意味では、間違いなく人災です。
 人災である以上、人間の作為が関与している、つまり事故の原因とまでは言えないまでもその誘因については、それを企図し推進した人間がいるはずであり、その人たちの責任は重大でこんご厳しく検証されなければなりません。そして事故後いろんな場面で「想定外」という言葉が使われました。ある場合には明らかに責任逃れの言葉として。しかし事故が「想定外」のものだと言うことは、或る人たちが或るところまでを「想定した」ということですそれがもろくも崩れたということでしょう。私はここで具体的にだれがその責任を負うべきか、などを究明するつもりはありません。
 ただ、これから高校生活を始める生徒諸君、そしてこれから高校生活最後の一年を、あるいは二年目を迎えようとしている皆さん全員にぜひこの機会に言いたいこと、そしてお願いしたいことがあります。それを簡単に言えば、世の中の間違ったこと、不正なことに対して、正しく怒ることを忘れないで下さい、ということです。良い子でいなさい、社会に役立つ人間になりなさい、とは言われてきたでしょうが、必要なときに正しく怒りなさい、とは初めて言われたことでしょう。しかし私は、この正しく怒ることがこの国をもっとましな国にするためにぜひ必要なことだと言いたいのです。
 今回の原発事故のあと、それまで原発に賛成してきた人、賛成しないまでもそれを黙認してきた人が、手の平を返したように、自分はもともと原発には反対だったなどと言い出しました。その人たちを非難するつもりはありませんが、しかし世の中に起こる不正や間違ったことに対して、その都度はっきり「ノー」と言うことが大切なのです。そして事態が間違った方に向かうときには怒りの声を挙げてください。具体的な反対運動に身を投じなさいと言うつもりはありません。とりわけ高校生のみなさんには、いまいちばん必要なことは、良い就職をするためではなく、人生を有意義に生きるために必要な理解力・判断力を養うための勉強を一生懸命することなのですから。でも昔と違って、政治を動かすためにはデもや集会などしなくとも、ケータイやインターネットという新しい手段があります。
 実は震災後、私自身がブログなどを通じて自分の考えを表明してきましたが、その過程で沖縄のある高校生のブログに出会い、たいへん感銘を受けました。彼のブログの主な主張は反原発ですが、しかしそれは特定の政党や団体に属してのそれではなく、まったく個人的な動機で始めたブログでたどり着いた考えでした。それも高校生らしく世界のいろんな国の電力事情やエネルギー政策の客観的なデータを集めながら、自分の言葉で自分の考えを表現しているのです。在校生には私がいつも言ってきたことですが、勉強することの最終的な目標は、「自分の目で見、自分の頭で考え、そして自分の心で感じる」ことです。私が知らないだけで、みなさんの中にはこの沖縄の高校生のような勉強や活動をしている人がいるかも知れませんね。そうだとしたら教師としてとても嬉しく思います。
 もしかすると、いやかなり高い確率で、皆さんは将来、飯舘村再建の最前線に立たなければなりません、そのために必要な知識や思考力をしっかり身につけていってください。今から12年前ですから、まだみなさんが小さい頃の話ですが、皆さんのお父さんやお母さんはいわゆる平成の大合併のうねりの中で、お隣の南相馬市と合併せずに個性豊かな村であり続けるという実に賢明な選択をしました。そして豊かな自然を有効利用しての農業や牧畜を発展させてきました。ですから今回の計画的避難区域という屈辱的な扱いを受けて、村民の皆さんがどれだけ胸が張り裂けるような無念さを感じておられるか想像に難くありません。
 最後にもう一度言います。皆さんは皆さんのご両親やおじいちゃんおばあちゃんの心の痛みを決して忘れないで下さい。そしてその無念さをエネルギーに換えて、村再建のため、いやいやそれに留まらず、もっと住みやすい、もっと人間的な国を作るためにしっかり勉強してください。こうして壇上から話しながら、さきほどから皆さんの顔を、皆さんの目を、老眼鏡越しに見ておりました。そして安堵しました。皆さんの目の輝きはほんものです。期待できます。そして同時に、脇に並んでおられる政府関係者、県庁のお役人たちの顔も眼鏡の端に捉えていました。その方々も、私の意見に賛成なさっているのが、時おりの頭の動かし方からも推測できました。たぶんみなさんご存知と思いますが、本年度が私が校長を務める最後の年です。村の校舎を遠く離れての不便な一年ですが、教師も生徒もこの逆境の中、かえってたくましく元気にがんばっていきましょう。以上で少々長すぎた私のお話を終わりにします。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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分校校長の始業の挨拶 への1件のコメント

  1. 三宅貴夫 のコメント:

    おはようございます。
    富士貞房校長の式辞を読みました。
    「正しく怒ることを忘れないで下さい」
    もっともことです。
    被災者がおとなし過ぎます。
    特に、原発事故の被害を受けた方々がそうです。
    ほんの一部の農家が、東京電力の本社に抗議に行ったと聞きだけです。
    海外から、日本人は、震災後、略奪もなく、我慢強く、和を重んじ秩序正しく、黙々と復興に励んでいると高く評価されていると聞きました。
    しかしこれを日本人の美徳と喜んでばかりおられません。
    おとなし過ぎるのです。
    市民運動はあるにしても、学生運動も労働運動もどこに行ったのでしょう。
    フランスでは年金改革で高校生がデモとしたと聞きます。
    テレビでは盛んに震災、原発事故が話題になり、「識者」と呼ばれる人たちがいろいろ論じているだけで、彼らがテレビの外で何か行動を起こしたとは聞きません。放送局に都合のいい人たちが選ばれて話しているだけです。当然、時流に乗った人たちか注目される人たちで、鋭く異論を差し挟む人はテレビには出してくれません。
    それを見ているだけのおとなしい国民です。
    テレビ団欒型民主主義です。
    これが原発を消極的にも容認し異議も唱えずにいたからこそ、今回の事故が起きたとは言えないでしょうか。
    という私もそのなかにどっぷり浸かって暮らしています。
    若者も中年者も高齢者も、男も女も「正しく怒ろうではありませんか」

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