非常時における連帯

※最後の部分、大幅に書き直しました。よろしく。

「久し振りに会うのに、なんだか浮かない顔してるね」
「久し振り? まっそう言ってもいいが。実は今日の午後、生命保険会社から電話があってね、この度の震災、心からご同情申し上げます、とかなんとか言われてね」
「それは当然だろ?安否を気遣ってくれてるんだよ」
「でもねー、保険会社としては何ごともないことが儲けに繋がるんだと考えると、その心から、という言葉が気になってね。複雑だよなー」
「もっと単純に考えたら?」
「で、その後に、地元の九条の会から、ふだんより少ないページ数ながら会報が届いてね」
「へー、律義だね、こんな混乱期に」
「それはそうだね。事実会員の中には津波で亡くなられた方もおり、事務局も一時は壊滅状態に追い込まれたんだから」
「新聞も『毎日新聞』と『福島民報』が市役所などにまとめて届けられたのが4月中旬、『朝日新聞』などは5月3日になってやっと配達されたことを考えると、九条の会の会報が6月15日に発行されたのは非営利団体としてはいい方じゃない?」
「……」
「なにかご不満でも?」
「いや、不満というわけではないけど。実は震災のすぐあとのころ、友人や会の主だった人のところに安否を訊ねる電話を何通も入れたんだけどね、避難してだれもいなかったときのことを思い出して、ちょっと複雑な気持ちになっている」
「だって仕方ないだろ、みんな原発事故の恐怖に襲われたんだから」
「いや責めているわけじゃないよ。だれだって身の安全をはかる権利があるんだから。でも一瞬のうちに襲ってくる津波とは違って、友人の安否を気遣うくらいの時間があったろう?」
「それはね君、言い辛いことだけど、君や奥さんはその人たちにとってはそれほど…」
「いや、その先は言うな! だから言っただろ、今度の大震災・大事故は、みんなの心が一つであることより、どれだけみんなの心が離れ離れであるかを気付かせてくれたって」
「人間なんてそんなもんだよ、と言いたいけれど、でも他人の命を救うために自らの命を落とした人や、いち早くニュースを伝えるために壁新聞を作った新聞関係者もいたことも事実だよ」
「そうだね、簡単に言えばみんなの地金が露出したわけだ」
「君もよく知っているように、このブログ、3月17日からほぼ連日、発信し続けてきたよね」
「そう、新聞にも取り上げてもらったおかげで、多いときは日に五千件もアクセスがあった。震災以後の発信の第一の目的は、できるだけ地元の人たちにも読んでもらって、現状をなんとか良い方に持っていこうとしたわけだけれど……」
「けれど?」
「これを読んでくださっている全国の皆さんにはとても恥ずかしくて今まであまり言ってなかったけど、これまで地元の人からはまったく何の反響もなかった。それをもどかしがって、西内君がたとえば私に関する新聞や雑誌の記事をプリントして配ったりしたんだよ。それはなにも私の名前を売ろうなんてことじゃなく、できるだけ多くの地元の人に読んでもらって、一日も早い町の復興に協力してもらうためだった」
「あゝそうか、なぜ君が九条の会のことを言い出したか分かってきたぞ」
「そう、この会は正に戦争反対を掲げている会だよな。そしていま、南相馬が置かれている状況は正に戦時下。平和時に主張してきたことを、ある意味で実践しなければならぬ時だ。もちろん家屋を失ったり、自宅が警戒区域に組み込まれて避難を余儀なくされている人たちはとうぜん全力でその苦境と戦わなければならない。でもそうでない会員もかなりいるはずだ。こういうときこそ、互いに連絡を取り合って、先ずは自分たちの現況を知ること、次にできる範囲で町の復興のために協力し合うこと。
 つまり平和時に戦争反対を叫ぶことは簡単だが、戦時下においてなおもその主張を貫くことの方がもっと重要だということだ。今日届いた会報の中に、どこかの大学の放射線の専門家を招いての講演会開催の知らせも入っていた。どんな人がどんな話をするか分からないけれど、このところ専門家と言われる人たちに対しては不信感が募りっぱなしでね。ともかく偉い先生からのご託宣を願う前に、これまでの経過を自分たちなりに一度整理してみることが必要だと思うよ。つまりまだ測定されていない地域などの放射線値は別として、これまで分かった範囲だけでも、私たちにいま何が必要なのか、それを先ず話し合うべきではないか。もちろん自己反省も含めて。お上の指針、専門家のご託宣をいつもおねだりするのはいいかげん止めようということだ……」
「でも専門家の意見を聞くことも必要だよ」
「いや今までだっていろんな専門家がいろんな意見を述べてるよ。でも結局今のところ確実な所見などない以上、ある程度の判断材料の中で、自分たちの姿勢を立て直す方が大事だということだ。それにたとえば東北電力との間の原発設置契約の白紙撤回など、この町の未来に関わる重要問題の解決を率先して主張すべきなのに、肝心の会自体が今のところ何の反応も見せないことに苛立ってるわけさ……」
「まあ焦るなよ。そのうちきっと分かってくれる人が出てくるって」

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

非常時における連帯 への1件のコメント

  1. 宮城奈々絵 のコメント:

    先生のblog、そして澤井さんのコメント。何だか切なくなり涙がポロリです。
    私の実家が津波に遭い、母の安否が分からなかった頃、そして母と連絡が取れ、地元の状況に涙に暮れてた頃、それまでの平常時、私が頼りになると思っていた固まりの方々はそうではなかったことを実感しました…。最後まで見守って助けてくれたのは、個人対個人の付き合いの友。
    今親しい友と長い間音沙汰無かった、かつての友。二つの強い友情。
    人との繋がりってなんぞや…が分かったような…。
    いつまでも戦時下の状況が恨めしいです。
    ですが、その状況がこうして先生や澤井さんとの出会いを私にもたらした…。人生の不思議さを感じます。
    ですが、先生、無理なさらないで下さいね…。
    時にはのんびりと過ごして下さいね…。
    ゆっくりと先生を待ちますから…。

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