アナテマ・シット!(呪われてあれ!)

さしもの酷暑も去ったのだろうか。ここ一週間ほど、外にも連れて行けず、椅子の上でぐったりしていた美子も、今日は朝から心なしか元気を取りもどしたかに思われ、ほっと心を緩めたときだから、午後二時ごろ突如襲った震度5弱とかの強い地震に正直参ってしまった、震源地は福島県沖とか。幸い短い時間で揺れは収まったが、あれがもう少し続いていたら神経が持ったかどうか。といって、そんな経験がないので、神経が持たないとはどんな状態なのかは分からないが。
 いやそんなことより一昨日あたりから、一つのことが気になっていた。まあ時間が解決してくれるだろう、と思いながらも、時おり鎌首をもたげるように、そのことが気になっていたわけだ。簡単に言えば、大学時代の友だちが懐かしくなって、私家本二冊を近況報告代わりに送りがてら、旧交を温めようとしたのだが、彼女、そう女性である、から一切の返事がないのである。友だちと言っても特に親しくしていたわけではない。しかし卒業後も何回か同級会で顔を合わせたこともあり、私も一度は経験して離れた道(つまり修道者の道)に彼女は残っていて、それはそれでいいことであり、ずっと頑張って欲しいな、と応援の気持ちを持ち続けていたのである。
 連絡してみようなどという気持ちになったのは、この大震災・原発事故の間中、気になっていたことがあったからである。つまりブログでもときおり触れたテーマ、すなわちこの震災・事故の中で、信仰者たちは何を思っていたのだろうか、という疑問というか気がかりである。で、私には時おりあることだが、朝起き掛けに大事なことを思い立ち、それを実行することがこれまでも何回かあって、そのときは、そうだ彼女や、別の会の修道女になった教え子に久し振りに連絡をとってみようと思ったのである。しかし教え子の方は、いわゆる観想修道会のシスターで世間とはほぼ没交渉であり、接触は難しかろう。それなら同級生が入った修道会はいわゆる活動修道会だから旧交を簡単に温めることができるだろうと考えたのである。
 それが十日以上も前のこと。幸い彼女の修道会はネットにホームページを開いており、アクセスしてみると、なんと彼女自身のコーナーもあり、聖書研究会などの活動を熱心にやっているらしい。それで近況報告代わりにと思って、今回の『原発禍を生きる』の前半部をまとめたもの、そして彼女はある会合で美子とも会ったことがあるのを思い出して、私と美子が交わした大昔の書簡を集めた『峠を越えて』を手紙と一緒に彼女宛に送ったのである。しかし以来まったく返信がない。一昨日、いくらなんでもこれはおかしい、とそのホームページにあった書式で問い合わせのメールを日をおいて二度送った。しかしそれに対しても一切の返事もなく、たとえば彼女が外国に旅行中とか、あるいは黙想中(年に一度はやる比較的長い黙想)であっても、そうした問い合わせなどを統括するシスターがいるはずだから、簡単な返事でもくれるのが常識だろう。トラピスト修道会のように、もともと世間とは没交渉の修道会ならいざ知らず、街中で布教活動もやっている修道会として、実に奇妙な対応である。
 とここまで書いてきて、今回のことのそもそもの発端についてまだ明かしてないことに気付いた。はっきり言うと、今回の大震災・原発事故の後、たくさんの人から、中には何年も音信が途絶えていた人もいたが、安否を気遣う連絡が入ったが、未だに不思議でならないのは、いわゆる教会関係者、つまり私や妻のかつての友人であった信者さんたちのだれからもいっさい見舞いの便りがないことである。唯一の例外はかつての同僚で今はスペインにいるシスターだけ。
 確かに私はここ十年近くも前から、カトリックの信者ではないことを隠してこなかったが、しかしかつての友人たち、それは神父である兄をも含めて、彼らの生き方を否定したり批判したりしてこなかったつもりである。非常に簡単に言えば、信者であることはやめたが、彼らとは友人のままの付き合いをしたいと考えてきたのである。しかし神父や修道女を含めて、かつての同僚や友人たちから一切の連絡が途絶えてしまった。私の方からあえて近づかなかったこともあるが、しかしそれにしてもこの冷淡さはどうだろう、と思ってきた。特に妻の場合、認知症であることが分かったからなのか、数人の幼な友だち以外、まあ見事なまでに音信不通が続いている。美子の母校で、一時期はそこの教員でもあった学校に、最近、本人は認知症になってしまったが、しかしそれでも私を介して母校との連絡は途絶えさせたくない旨の手紙を書いたときの、その冷たい反応に本当にがっかりした。
 表題のうろ覚えのラテン語は、anathema sit、つまりお前は破門された、呪われてあれ、という意味で、キリスト教徒がアポスタタすなわち背教者に投げつけた呪いの言葉である。つまりかつては異端審問所に付けねらわれ、時には焚刑にされたが、現代の背教者は冷たい無視という仕打ちに遭うのか、と思うと、寒気すら覚える。
 もしかすると、今回のことは何かの手違い(どんな?)かも知れず、そのときは被害妄想のお咎めを覚悟しなければならないが、どうもそうではなく、上に危惧したような次第ではなかろうか。今のところ、これ以上問い合わせなどしないつもりだ。彼女たちは、私のことを門前まで追ってきたストーカーくらいに考えて、通り過ぎるのを息を詰めて待っているのかも知れないから。もちろんそうではないかも、と一縷の望みを残してはいるが…暑い暑い夏の、これは背筋も凍る現代風怪談である。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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アナテマ・シット!(呪われてあれ!) への8件のフィードバック

  1. 三宅貴夫 のコメント:

    モノディアロゴスは欠かさず読んでいますが、久しぶりのコメントさせていただきます。
    本日、NHK Eテレで拝見しました。
    佐々木さんが想像した以上に穏やかで豊かな表情でした。
    と同時に、深く秘められた信念と怒りも伝わってもくるように思えました。

  2. 野中 けい子 のコメント:

    初めてお便りいたします。
    心の時代、今日もシッカリ拝見いたしました。
    それについては、皆さまのコメントがあるようですので、あえて割愛させていただきます。
    ただ今日お書きの一文が、日頃私が感じている〔やりきれない冷たい仕打ち〕とあまりに合致していて、思うこと感じることあり書き込みをしてしまいました。
    私は幼稚園から高校までミッションスクールで学び、妹は観想会のシスターになりました。そんな環境のせいか、いわゆる聖職者といわれる方々とのお付き合いが
    多々ありますが、残念ながら暖かなものが感じられる〔本物〕はホンのわずか~~。教師でもお医者さまでもそうですね。
    かく言う私も93歳の母の介護をしていて、ついに限界、介護施設にお預けしたことで、母の人生を根こそぎ引き抜いてしまったという罪悪感に、日々自問自答しています。TVを拝見し奥様と手を重なられる映像に、母は(やり切れない冷たい仕打ち)をされてさぞや淋しさ辛さを味わっていることだろうと申し訳なさに又しても胸の重さが増しました。自分の人生を掛けて、人を大事にすることって本当に難しいことですね。ご夫妻が心安らかな日々を重ねられますようお祈りしております。

  3. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    野中けい子さん
     たぶん分かってもらえないだろうな、と迷いながら書いたことを、よく理解してくださいました。有難うございます。
     お母様のことですが、どうぞ自分を責めないでください。お母様はきっとあなたの優しいお気持ちをしっかり受け止めているはずです。介護の仕事は、実は95パーセント体力勝負みたいなものです。私が娘だったら、とても世話できなかったでしょう。ともかくあなた自身が元気でいること。家族というものは、皆がいい人であっても、それだけでは持ちません。時に冷たいかなと自分で感じたとしても、そこで元気を失くしたら、家族という船の喫水線が上がって(?)しまいます。つまり軽すぎたら転覆しますし、重すぎたら沈没してしまいます。
     お互い、元気で楽しく頑張りましょう!
     

  4. 松下 伸 のコメント:

    見当違いかも。
    異端のキリスト教って、沢山あるのでは?
    「背教者」、「堕落した」信者たち・・
    教科書で習った、ポルトガル・イエズス会の
    表玄関からのキリスト教伝来。
    それとは違う、裏口渡来のキリスト教。
    西まわりで、ノバ・イスパニア経由、
    インディオの土着信仰と習合した
    淫祠邪教にも類するキリスト教・・
    そんなの絶対ない!・・でしょうか?

                     塵(愚感)

  5. 山本眞理 のコメント:

    根こぎにされること、今考えています。そして震災後私が読んだ本はお恥ずかしいけれど3・11以降再読した子どもむけの田中正造伝『果てなき旅』日向康著 1978/5/31福音館書店
    ここにふさわしくなかったら削除してください
    発病した息子さんをうたう、カトリックの家庭の母の歌
    病む令息を忘れじとへつらいし校長神父めぐる四旬節にまた赦すべき
    渓さゆり歌集「火」より

  6. junko Kusumoto のコメント:

    こんにちわ
    イタリアにもう20年以上住んでいるので、カソリックの問題はいいこと、悪いこと、まあ悪いことのほうが多いのですが..苦笑 いやというほど目にし、耳にしてきました。
    言わせてもらえば、今のカソリックこそ、ご本尊様であるキリストの教えに背いてるわけですから、あの人たちに、背教とか言われたくない、と思います 笑
    こちらにもカソリック ピンからキリまでいるので、宗教の壁を越えて素晴らしい信仰をしてる人から、自分の中の空虚を埋めてるんじゃないの? と思った人まで、いろいろ知り合いました。
    だから、素晴らしい人もいるも知っています。
    ただ、カソリックの教義上、殉教者と非殉教者との間に溝を作りやすい教えでもあると思っています。
    ただ、宗教をのぞいて、ただの人間というレベルで考えると、まことに情けない話ではありますが、誰かの困難に巻き込まれたくないとそっぽを向く人は少なくありません。
    現在の福島の放射能の問題にしてもそうです。
    なんで、もっと国民が一丸となれないものかと、こういう時に手を貸しあわなければ、
    なんのための社会ですか? とも思い、私には理解不可能なところが多いのです。
    ということは、宗教とは、それぞれが自らの中に持っているものだと思うのです。
    それがなく、外からの宗教を教えられた人は、多分神様の教えを棒読みするのは上手かもしれませんが、実際に宗教が必要とされる日常の生活に、困難を抱えている民の心に、沁み込み、根を下ろさせることは難しいだろうと考えます。
    宗教とは紙の上の学問ではないと思うからです。
    それが宗教を実際に行う人はファナテイックであると言われる所以であると思っています。
    宗教とは、教示でもなんでもなく、ただ愛であると思うので..
    ということは、佐々木先生はご自分を背教者であるかのようにおっしゃっていますが
    その愛を つまり宗教を毎日行っていらっしゃるのは、ほかならぬ佐々木先生であると思います。
    その、彼女ではなくね。
    世の中にはいろいろな人がいます。
    友達だと思ってた人に、背を向けられるのは辛いことですが、でも友達でなくても、佐々木先生の事を理解し、心を寄せる人はほかにも沢山いると思います。
    私は、取るに足らない人は無視することにしています。
    それこそ、キリストが十字架に張り付けにされた時に発した言葉のように
    「神様、赦して下さい、彼らはなにも知らないのです」
    知らないことも一つの罪だとは思いますが、でもそれさえ知らないのですから、
    むしろ可哀そうというほかありません。

    佐々木先生と奥さまの日々の心の平安、ご健康を祈り、遠くからではありますが、応援しております。

  7. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    JUNKOさん、遠いローマからのメール、ありがとう。私も、なんと心根の寂しい、貧しい人たち、可哀相な人たちよ、と思ってます。かつては彼らも生き生きとした信仰に鼓舞されていた時もあったのに、今は燃えがらのような、ただただ形骸化し習慣化したものにすがって生きているのかな、と思ってます。カトリックの総本山にいると、そのことがもっとはっきり見えるでしょうね。
     またローマからのお便り待ってます。

  8. kt_hy_HMiyake のコメント:

    たまたま読んでいる本にあった、”anathema sit.”でヒットしたこちらになぜかコメントしております。
    3.11のあった年にカトリックの洗礼を受けました、”anathema sit”を何度も言われるであろうことを承知で、今もその現実を受けている身だし、そう周りの誰かにしてしまう恐れと闘っているのだと思います。

    修道者、司祭職、信徒に関係なく、机の上の宗教を追いかけている人は多いのは
    洗礼を頂く前からずっと感じているし、愛に生き切れない現実を抱えた人の集まり
    なのだなと、アナテマシットを感じながら思う事もしばしです。

    泥中の蓮という言葉と福音は、私の中では一致する部分が多いと思っています。

    自分の不安で周りの人を根こぎにしていく、弱い者が自分よりもさらに弱い人を
    踏みにじってのさばっていく壊れた関係性の中で、それでも顕れてくる輝きはあるのか、もしそれがあるのなら見てみたい。
    私はその思い一つでいます。

    お祈りさせていただきます。

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