数日前、取材旅行でバルセローナからブリュッセルに着いた浜田陽太郎さんから、「佐々木先生のお宅の2階は、何かインスピレーションに満ちている感じがします。だから、みなさんが訪ねてくるのでしょう。」という嬉しい言葉をいただいた。今週の水曜日についに拙宅に外国から著名な作家を迎える予定を伝えたときの、氏からの返信の中の文句である。
確かにこの陋屋の、とりわけ汚い二階居間に震災後、千客万来、実にいろんな人が訪ねて来たが、今度はロブレードさんが飛び切りの珍客、と言えば失礼だから賓客と言い換えるが、を連れてくるのだ。お名前を明かすと思わぬ邪魔が入るかも知れないので、いやそれは冗談、だが実際にいらっしゃるまではお名前は伏せておこう。要するにナダール賞とプラネータ賞というスペインで最も権威ある文学賞を二つも受賞した作家が、取材のためカメラマンを一人連れてやってくるというのだ。
もちろん取材と言っても、震災とりわけ原発事故後の被災地についての取材で、私はその添景の一つに過ぎないが、それでもお迎えするとなっていささか慌てている。つまりロブレードさんが適切な通訳をしてくださるはずだが、スペイン思想研究家、特にウナムーノやオルテガなどの翻訳も手がけてきたのであるから、それなりに(?)スペイン語を話さなければなるまい。しかし恥ずかしいことに、教師生活から足を洗って以来、つまりもう十年以上ものあいだ、話すことも読むことも、ましてや現代スペインと接触することも、現代小説を購入することもなかった。
しかし作品自体を読まずとも、少なくとも今までどんな作品を書いてきたか位は知っておくというのが礼儀だろう。それで間に合うはずもないだろう、と思いつつ、アマゾンに受賞作二作を一週間いや5日前だったかに注文したのである。ところが奇跡が起こった。外国の取次店経由だと思っていたら、昨日そのうちの新しい方が届いたのだ。スペイン文学に詳しい人なら、題名を言えば作家が誰かすぐ分かるだろうが、一般の人には分からないので、この際題名を明かせば、2007年のプラネータ賞受賞作 “El mundo”(世界)という自伝的小説である。
ウナムーノ、オルテガを訳していると言ったら、たいていのスペイン人はあんなむつかしいものよく訳すね、と言ってくれるが、実は私には思想的な、つまりは抽象的な内容の文章より、現代の日常的な世界を描いている小説の方がよっぽど読みにくいのである。
というのは言い訳。要するにこの十年のあいだ、私の読解力が加速度をつけて落ちているということである。でもせっかく手に入れたのだから、230ページほどの、そう長くはない小説、分からないところは飛ばしてでも、作者ご自身が来られるまでなんとか読み通しておこう。
そんな時なのに、今晩美子を寝せようと、トイレを済ませ歯を磨いたあと、うっかり手を放した瞬間、洗面所のところで彼女、ふらふらと尻餅をついてしまった。こうなると起こすのは容易なことではなくなる。それでも叱りつけ邪険に起こしてようやく寝床まで引っ張っていった。しかし脅してもすかしてもまったく反応しない美子の扱いにほとほと参ってしまった。支えてやれば歩けるし、食欲もあるし、排便もまあまあ順調、しかし意志の疎通がまったくできない美子。枕元で名前を呼んでも、頑張ろうね、と言っても返事がない。しかし優しい声で、そのうち愛ちゃんが来るよ、会いたいでしょ、と言ったとき、わずかに笑みを浮かべ、再度同じ言葉を言うと、今度ははっきり声を出して笑った。そうなんだよなあ、こうなっていちばん悔しい思いをしているのは美子自身なんだよなあ。
明日からは叱るのはやめよう、いつも優しくしよう。このまま症状がどんどん進んでいく、と諦めていないか。諦めるのは早い。ほんと、直らないまでも、もしかして進行が止まるかも知れない。実は数日前、二日続けて、美子がふつうにしゃべる夢を見た。そんな夢、今まで見たこともなかった。あゝあれが正夢でありますように!
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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