素晴らしきかな人生!

孫たちが北に去った夜、思い立って美子の髪の毛を切ってやった。いや正確に言うと、その前に先ず自分の髪の毛を切った。最後に切ったのはいつだったろう。まだ暑い最中ではなかったか。廊下の壁に掛けてある長方形の姿見と、それより小さい、やはり長方形の鏡を見ながら鋏を使うのだが、鏡の中の鋏の向きが実際とは逆なので(つまり鏡像なので)、どうしても上手くいかない。それでも何とか形になった。
 だから美子の髪を整えるのは実にかんたん。前の方に白髪が目立ってきたが、今回は散髪だけにした。散髪などと今ではほとんど使わない言葉を使ったが、さて今なら何と言うのだろう。あゝそうか、カットだ。ともかく二人とも少し若返って見える。何日ぶりかのシャワーでさっぱりした。美子の服を脱がせるときも、着せるときも、洗面所に置いた丸い木の椅子を使うことにした。同じ木の椅子を、もう一つ玄関の土間にも置いているが、これも靴を脱がせたり履かせたりするときに実に便利だ。体を支えてやらないとふらふらするので、全ての所作を坐らせてからやれば、上手くできるのだ。
 髪の毛がさっぱりしたせいだろうか、昨日は溜まっていた洗濯物を二回に分けて洗ったり、今日は秋らしい天気に誘われるようにして、久し振りに夜の森公園に散歩に行く気にもなった。美子は例のとおり、心持ち右前方につんのめるようになるので、手と腕を抱え込むようにして歩いた。公園のロータリー周縁の木々があっという間に紅葉を増していた。柔らかな午後の光の中を、今日は十人近くのご老人たちが(私たちもゴロージンだが)散歩をしたり、ベンチに腰掛けたり、秋の午後を楽しんでいた。
 市内の幼稚園や小学校もいくつか再開したが、子供たちはまだ40パーセントしか戻っていないらしい。だから、これまで以上に町中に老人の姿が多いように見える。幼い子供たちの姿を眼にすることもその柔らかな肉声を聞くこともほとんどないのは淋しいが、まあこれも時間の問題だろう。徐々に増えていくと思う。私たちはこれまでもう嫌になるほど放射能の話を聞かされてきたが、しかし実際にどのように怖いのかはほとんど知らされないまま「怖さ」だけがまるで亡霊のようにそこらを徘徊している。たとえば比較的低い線量でどれだけの被害が出るか、実際にはだれも確言はできないままだなのだ。これから冬に向かって空気が乾燥してくると、必ずインフルエンザの蔓延が心配されるが、素人目にはこの方がはるかに恐い。
 今まで何度か言ってきたような気がするが、放射能の被害、例えがガンなどの罹病率は運動不足による肥満とかタバコや栄養過多に起因する罹病率よりずっと低いことは事実で、誤解を怖れずに、あるいは不謹慎の謗りを怖れずに言うなら、放射能対策はいわば一種の賭けのようなもので……だから偽総理の最後の記者会見でも言ったように、将来起こりうる被害に対しては、国を挙げて最善最高の手当てをするための対策を今から整え、そしてあとは運を天に任せて、萎縮しないで、元気よく生きていく方がどれだけ「健康」にもいいのでは、と思っている。だから子供たちが学校の行き帰り(もちろん線量の高いところは別だが)マスク着用で歩いているのを見ると、そこまでやるのはかえって逆効果じゃない?、と思ってしまう。そんなことを言えば、周囲から総スカンされそうな雰囲気があたりを領しているのも異常といえば異常。
 もちろん以上は線量の高いところの除染を今まで以上に執拗かつ徹底的にしてもらうことを前提にした上での話である。いや本音を言えば、もうこんなことにいちいち意見(異見)をさしはさむことなどご免なのだ。
 ところでいつものとおりここで話はとつぜん変わるが、昨夜、26年の間を置いて、このブログで奇跡的とも言うべき親子の対面を果たした、その息子さんの方から、思いがけなく電話をもらった。最初どう応対すべきか戸惑ったが、しかし話していくうち、不思議なことに、まるで私自身が長い時間の後に再会した肉親に対するような親しみを息子さんに感じ出した。住んでいるのは札幌で、今は単身赴任で長野に来ていること、そして何とあの美空さんが彼の奥様であることも知った。父親と生き別れてからの話も少し聞いたが、それはそのうち、私などより数段お話上手なお父上か、息子殿自身から直接伺った方がいいだろう。
 彼にはお父さんの電話番号、住所など教えたので、たぶん今頃は直接電話するなり、あるいはひょっとしてもう奇跡の再会を果たしたのかも知れない。私としてはこれ以上踏み込まないで、お二人の口からおいおい話していただけるはずだと、あせらず待つことにしたい。それにしても、こんなことがこのブログを舞台に起こったんですねー、素晴らしい、実にめでたい!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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素晴らしきかな人生! への1件のコメント

  1. 宮城奈々絵 のコメント:

    段々と夜も冷えるようになって参りました。東北の秋は短いです。先生、奥様、お体調子崩されませんように…。大変久しぶりのコメント、何だか緊張もいたします。
    「お体を…」と書いている本人が、最近、体の調子を崩していました(精神的にもでしょうか)。
    物心つく頃から決して病気をすることのなかった母が体調を崩し、続けて2回の入院。さすがに2度目の退院には様子を見て来ようと仙台に帰省などしたのですが、元気のない母の様子に、何でしょう、戻ってきた私まで体調崩してしまいました(今は元気になりつつあります)。
    子供からすると、親は元気でさえいてくれれば、それだけで子供も元気になれるものですね。「元気でいてくれる」それが親の一つの務めかもしれません。
    明日、Sさんが帰って来られますね。またこのコメント欄でお会い出来ること嬉しく思います。
    先生のblogで起きた「奇跡(輝跡)」に、静かなギャラリーである私には、語る言葉が見つけられません(いえ、恥ずかしながら自分の心を描く力もまずないのです)。固唾を呑むばかりで…。
    ただひとつだけ、この震災、津波、原発禍でも言えることなのですが、人の…一人一人の人生、生き方、生活は本当に他人が伺いしることが出来ないほどに真に深いものである…と再び心から思いました。
    「明日が在るを信じて…」私が思っていた以上に重みのある言葉だったのですね。
    きっと、先生も、blogで私が読む以上のお心うちが、沢山とおありなのだと改めて思います。
    たくさんの人を幸せにする力が、当たり前ですが、私にはありませんが、幸運のような偶然に、出会えた方々の幸いを祈ることは出来ます。
    お一人お一人の、その方にとっての幸いなる「人生」をそうっと祈っています。
    追記;Sさんがいらっしゃらないので、私が長々と書いてしまいました。久しぶりのコメントなのに拙い文で恥ずかしい限りです…。

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