今回のうろたえは幸いなことに(?)家内についてではない。一昨夜のこと、東京のロブレードさんから電話があり、明日の晩、コロンビアのテレビ番組(NTN24時間)から福島原発事故について取材を受けるが、ついてはあなたも取材に応じて欲しいと言う。もしかして三元放送? たぶんロブレードさんはスカイプかなんかで応じるのだろうが、私はそんなもの使ったことがない。いや電話で応じるだけでいいと言う。でもスペイン語で応じるの? もちろんそうだが、私が適当にアシストするから大丈夫ダイジョウブ、とロブレードさんこともなげにおっしゃる。
さあ困った。日ごろから聞いたり話したりすることをやっていないので、こういうときスペイン思想の元プロフェッソールは困ってしまう。でもロブレードさんのためなら、なんとか力になろう。ところが実際はそう甘くはなかったのである。
先日、スペインから来られたナダール賞作家ミリャス氏のときは準備不足でろくな応対が出来なかったから、今回はせめても準備だけはしなければなるまい。さて原発関係の用語は、と和西辞典や西和辞典をめくってみる。原発、再生可能エネルギー、廃炉、放射能廃棄物、冷温停止、甲状腺ガン、内部被曝、線量計……そんな事故など予想していないときに作られた辞書だから、まるで役にたたない(そのうちの一冊は私も関与しているからあまり大きなことは言えない)。
結局、まずネットで英語表記を調べ、そこからスペイン語を推定するしかない。短い応対の中でそんな難しい話にはならないであろうが、でも準備だけは。そうだ、短い文章で今回の事故に対する基本的な見解をスペイン語でまとめておこう。
さて昨日、当日である。ロブレードさんからは、夜九時二十分から彼が画面に登場し、これまでの経過、そして彼が作っているドキュメエンタリーの説明などをし、そのあと四十分からいよいよ私が電話先で登場ということになるとメールで知らせてくる。夕食もそこそこに終え、九時になる。すると不思議なもので変に落ち着いて、しかも眠気さえ覚えてくるではないか。テレビ・キャスターや演奏家など舞台登場前もこんな感じなんだろうな、などと他人事に思えてくる。実はその前に二度ほどコロンビアから女性の声で今晩取材に応じてくれることに対する確認やら時間のことなどの連絡が入ったのだが、そのスペイン語の速いこと。
一般に南米のスペイン語はスペインよりゆったりしていて聞きやすいと言われている。ついでに言うなら、南米の人はスペイン語をエスパニョールではなくカステリャーノという言い方を好む。かつての宗主国に対する屈折した感情からであろう。つまりスペイン帝国の言葉ではなく、その一地方の言葉という意味である。特にメキシコのスペイン語はスペイン人からすればかったるいくらいスローである。
ところが昨夜は出てくる人の皆が皆まるで速射砲か機関銃のようにしゃべる。ここにもラテン系の人の特徴が表れる。つまり相手に合わせることが出来ないのである。これじゃ本番ではどうなるだろう、とここで初めてうろたえ始めた。
しかし、である。その四十分が過ぎても、なんと十時を過ぎても電話がかかってこない。前の番組が「押して」いるんだろうか。それにしても…すると七分ころ再び男性の声で、いよいよ五分後でーす(と言ったように思う)と連絡が入り、ほどなくして機関銃のようなスピードでこの放送は南はアルゼンチン、チリから北はカリブからメキシコまで幅広くカバーする放送であるとか何とかしゃべっているのが聞こえてくる。画像が見えないのでどういう事態になっているのかまったく分からない。しばらく待っていると、明らかにトーンが変わって、ハポンとかフクシマとかの言葉が入り始め、ドキュメンタリ-の主人公(プロタゴニスタ?、ええっ聞いてないよ)タカシ・ササキなる言葉も聞こえてきて、あっという間にインタビューが始まってしまった。容赦のないスピードで話しかけてくるので、どういう質問かはっきりしないまま当て推量で答えていくしかない。
「はい、避難しませんでした。なぜなら認知症の家内や、施設を追い出された98歳の母がいて、正直、避難生活は不可能だったからです」。準備した答えでは「たとえそうした障害がなくても、公表された数値を信用するなら、しばらくは屋内退避をした方がいいと判断したからです」を言うはずだったが、その暇もなく次の質問に移っていく。
「そうです、行政は私たちの命を救ってくれましたが、私たちの人生をめちゃめちゃにしてしまいました」。
本当はその前に「私たちは放射能の被害というよりも、根拠のない情報や謂れのない恐怖心によって甚大な被害を受けてきました」と言うはずだったのだが。
最後の質問らしかったので、せめてこれだけは言っておきたいとこう話し始めた。「この原発事故がもたらしたもっとも悲劇的な点は、私たちが先祖たちが持っていた精神力や神を失っていたこと、そして現在の私たちの神は、日々の安楽や利便性になってしまったということ、つまり今や私たちの世界は経済的投機によって動いているということです」。
一瞬相手は何のことか分からぬ風だったが、なに構うもんか、せめてそれだけは言っておきたかった。本当は最後に「どうか貴国がいかなる原発をも持ちませんように」と言いたかったのだが、声が変わって慌しく最後の挨拶をされてしまった。気がついてみると、頼りにしていたロブレードさんはついに現れなかった。いや待てよ、最後の男性の声は…もしかしてあれは向こうのアナウンサーではなくロブレードさんの声だったか? それが分からぬほど「うろたえて」いたということである。
かくしてミナミソーマの老教師の声は、チリからメキシコの空へとはかなく消えていった。突然、紺碧のカリブの浜辺、輝く陽光に包まれた風通しのいいバーかなんかで、肌も顕わなセニョリータの形のいいい耳朶に、明らかに外国人なまりのカステリャーノが虫の音ほどの響きを伝える光景を思い浮べた。まっいいかそれでも。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日
- 嬉しい話のてんこ盛り(その二) 2018年12月7日
- 敗残の兵と西瓜 2018年12月2日
- 嬉しい話のてんこ盛り 2018年11月27日
- 呑空庵西漸(せいぜん)す 2018年11月25日
- おや、こんなこと書いていた 2018年11月24日
- 勘違いの連鎖(その2) 2018年11月19日
- 美子、金婚おめでとう! 2018年11月16日
- 柳美里さんからのお知らせ 2018年11月16日
- 呑空庵福島支部誕生 2018年11月13日
- ちょっと嬉しいお知らせ 2018年10月30日
- 景気の悪い近況ご報告 2018年10月26日
- 紫陽花色のソックス 2018年10月15日
- 平和構築のための強力な布陣 2018年10月12日
- 累計2,300人!!! 2018年10月8日
- 戸嶋靖昌「受難」 2018年10月3日
- 思いがけない再会 2018年9月29日
- 近況ご報告 2018年9月28日
- まるで青年 2018年9月16日
- 再度のお誘い 2018年9月16日
- 我らのモノディアロゴス君 2018年9月11日
- プライバシーという魔物 2018年9月6日
- お知らせ 2018年9月3日
- トロイの木馬 2018年8月28日
- メディオス・クラブについて 2018年8月22日
- 「焼き場に立つ少年」報道異聞 2018年8月18日
- 偉い坊やがいたもんだ! 2018年8月16日
- たまには写真でも 2018年8月12日
- あゝ腹立つー 2018年8月9日
Marie より:
Love de l’oreille,
brise, bise, baiser
fuji-teivo より:
すみませんフランス語はわかりませんので次回から日本語でお願い致します。よろしく。
Marie より:
Non
C’est ma langue,
de mon pays;
ma liberté,
mon âme,
あなたがフランス人でないことはその奇妙な(第二外国語修得クラスの)フランス語でバレバレです、ふざけるのは止めなさい。真面目にしないとすぐ削除しますよ。コメント欄をオープンにしているので、あなたのような変人が現われるのはある程度「想定内」でしたが、他の真面目なコメンテイターの迷惑になります。もう金輪際書き込みはお断りします。悪しからず。