少々うろたえました


【浪江の甲状腺被曝量、チェルノブイリの千分の1】
 東京電力福島第一原子力発電所から20キロ前後に位置する福島県浪江町の住民の甲状腺被曝(ひばく)量は、チェルノブイリ原発事故後の周辺住民の被曝に比べ、1万~1000分の1だったことが、札幌医大の高田純教授(放射線防護学)の調査でわかった。18日に神戸市内で開かれた日本放射線影響学会で発表した。 原発事故で施設外へ放出される放射性物質のうち、ヨウ素131(半減期約8日)は甲状腺にたまりやすく、被曝量が多ければ甲状腺がんを引き起こす可能性もある。
 高田教授は事故後の4月8、9日、同県内の避難所で、18歳~60歳代の浪江町民計40人の甲状腺被曝量を測定した。結果は3.6~7.8ミリ・シーベルトで、平均は約5ミリ・シーベルトだった。一方、チェルノブイリの周辺住民は、数シーベルトから50シーベルトとされている。(2011年11月19日00時31分 読売新聞)」

上の記事をどこで見つけたのか、思い出せない。ブログで扱おうとしてとりあえずコピーしておいたものらしいが、どうもはっきりしない。白状すれば実はそれどころではなかったのだ。一昨日あたりから、少し「うろたえて」いた。こういう事態になることは覚悟はしていたが、予想より早く来てしまった、弱ったな、というのが最初の 想いであった。
 このごろ、と言ってもいつごろからかもはっきりしないが、美子の歩行が怪しくなり、トイレに行くときの三段ばかりの階段でもなかなか足が上げられなくなってきていた。トイレに入っても、便器に坐らせるときもふらふらするので、片手で支えながら下着を下ろさなければならない。寝る前のトイレのあと、すぐ側の洗面所で歯を磨いてやるときも、片手で体を支え、足でつっかい棒をしながら磨くようになったのはそれと同じころからだろうか。
 寝る前や起きたときの着替えは、椅子に坐らせたままなんとかやっている。酔っ払いを扱った経験は無いが、たぶん同じようなものだろう。つまりじっと坐っているわけではなく、すぐに後ろに倒れてしまう。ともあれこれら一連の動作もそのうち出来なくなりそうになってきたわけだ。特に昨夜は、早急に対応を考えなければ、と切羽詰った気持ちになった。うろたえてはいたが、そのうち運動神経が働かなくなって寝たきりの状態になっても、施設には預けず、最後まで面倒を見たいということだけはっきり心に決めていた。
 それからネットで「認知症 運動神経 寝たきり」などで検索してみた。すると、いろんな人がこの問題に直面し、苦闘していることが分かった。ネットのおかげで経験者たちからいろいろ教えられるのは本当にありがたい。
 いずれにせよ二階で暮らすのはそのうち無理になるだろう。生活の場所をすぐ下の西側の部屋(これまで使ってこなかった本当の書斎の隣)に移し、廊下から古い方の玄関(我が家には二つ玄関がある)そして土間までバリアフリーの工事をしなければなるまい。また今月下旬に帰ってくるばっぱさんの一時帰宅にも使えるので、中古でいいから車椅子でそのまま乗せることの出来る車を手に入れよう。
 そんないろんなことを考えていくうち、なんとも情けないことに急に心細くなって、十和田の息子と川口の娘にメールで現況を知らせた。ありがたいことにすぐさま二人からメールが返ってきた。もうすぐ帰ってくる息子からは「僕たちがいるから大丈夫だよ」、娘からは「普段そばにいられなくて本当に苦しい」と言ってきた。正直言って、これまで子供たちから力づけを受けるようなことがなかったから、さすがに胸に来るものがあった。恥ずかしいけれど、しばらく涙が止まらなかった。今までさんざ勇ましいことを言ってきたが、この体たらくだ。でも元気を出して頑張らなくては。
 今朝、いつもの通り、いつもの時間(このごろは寒いので7時半)に起こしたが、両手をひっぱって起こすことが出来たし、トイレまでの道順もなんとか誘導することもできた。着替えはやはり椅子に坐らせたままでやったが、この十日間ほどの様子とあまり変わりが無い状態に戻っていた。
 でも次々と手を打っていく必要がある。先ずいつも車の世話をしてくれる中学時代の同級生Eさんに電話をする。一時避難はしたが、ありがたいことに三月下旬には戻ってきて仕事を再開していたらしい。中古でいい車が見つかったら教えてくれるよう依頼する。次に再度ばっぱさんのお世話をしてもらうはずのくにみの郷のWさんに、下旬にばっぱさんが帰ってくること、そしてついでに要介護認定の手続きについて教えてもらう。善は急げとばかり、美子の足回りを膝掛けでくるみ、ストーブを消してからすぐ市役所に出かけ、無事申請書を提出した。そのうち自宅まで調査員が来てくれ、その結果を判定会議にかけ、一ヶ月以内に要介護認定が出るらしい。
 さあこれからが私にとって、いや私たち夫婦にとって本当の闘いだ。悪いけど(?)原発問題なんてクソ食らえ(失礼!)だ。気負わず、無理をせず、たじろがず(昨夜のように)、むしろ余裕をもってこの闘いを闘い抜きたい。
 でもこれからは時おりうろたえたり、見苦しい格好を見せるかも知れないけれど、どうか「ながーい目で見てください」(両目尻を手で横に引っ張り長く延ばしながらの小松政夫のパクリで)。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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少々うろたえました への1件のコメント

  1. 宮城奈々絵 のコメント:

    突然真冬になったかのような、この数日の寒さに著しく動きが鈍くなってしまいました。
    鈍い頭で、先生のblogを開いた私ですが、淳さんの「僕たちがついているよ」との言葉に、ハッと心が打たれた気持ちです。
    自分の両親も、そのような言葉を待っているのでは?、はたまた、そう言われたら嬉しいのだろうな、などなど、色々な気持ちが浮かびます。
    淳さん、澤井Jrさん、美空さん…。子として学ぶところが沢山あり、自分を振り返ると、…怖くて振り返れない気持ち半分、残り半分は自分には無理なんじゃ…、な気持ちです。
    「側にいるよ」と素直に言える親子関係とは、どのようにしたら出来ていくのだろうかと考えてます。母娘の方が父息子・母息子より難しいのでしょうか…ネ。
    私の話はさておき、先生の御家族が再び揃われる日を、そのお話が聞けることを心待ちしています。愛さんの笑顔と元気が、先生、奥様の支えとなりますように…。

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