AKB現象

それを言っちゃお仕舞い、といういわば禁句、つまり国民は愚かである、という禁句を口にした以上、この議論はそれこそここでお終いで、ではどうすればこの愚かさから抜け出せるか、という第二の問題に移らなければならないであろう。しかしそれではあまりに身も蓋もない話、木で鼻を括った答えと言われよう。事実、日本における民主主義の現状についてはまだまだ言いたいことが山ほどある(いやそんなには無いか)。
 最近、保守派の論客からはさんざんけなされているいわゆる戦後民主主義についてであるが、私は敗戦後最初の小学一年生だったから、物心付いてからずっとこの平和憲法の空気を吸って生きてきた。確かに権利のみ主張して義務おろそかにする、という弊害があるのは言うまでもない。別言すればいわゆる「自由と放任の履き違え」というやつである。しかしこれはまさに履き違えであって、制度そのものが悪いわけではない。
 唐突だがここでオルテガ『大衆の反逆』の中の印象深い文章を紹介しよう。


「まるで嘘のように見えるかも知れないが、青春はゆすりになってしまった」


 実はこれは寺田和夫訳(中央公論社版)の付録につけた「名著の言葉」という4ページのしおりのために私が選んだ十の言葉のうちの一つで、それにはこんな説明を加えた。「もともと青春 (adolescencia) とは <病んでいる(adolescer) > もの、一種の欠乏状態である。だから青年が足りないものを求めるのは当然である。しかしあくまでそれは出世払いあるいは信用貸しとしてであった。しかるに現代の青年はそれが当然の権利であるかのように要求するのだ」。
 ところが今やこれは、青春あるいは青年にだけ当てはまる言葉ではなくなった。つまり世界の国々の中で、日本ほど精神年齢が若いと言うより幼い国は無いのでは、とずっと思ってきた。戦後直ぐにマッカーサー元帥が日本人の精神年齢は十二歳だと言ったのは有名だが、彼がどういう意味で言ったかはともかく、いまや日本は当時よりその幼稚化がさらに進んでいるように思えてならない。これをAKB(48)現象と言う。
 他の世界のことは良くは知らないが、長年教師をやっていたので、現在の青年たちの実態はよく分かっているつもりだ。私が教師になって少ししてからだから1970年代だと思うが、学生たちの間でやたら「可愛い」という言葉がはやりだしたことを覚えている。今の「可愛い」ブームの走りである。そしてそれとほぼ同時に、少し学年が違うだけで早や考え方が違うということを無闇に気にする風潮が広まり出した。つまり一歳しか違わない上級生を蔭で「おじん」「おばん」と揶揄する風潮である。つまり幼年化とは裏腹の、しかし根底では繋がり、結局は同じ現象である。要するに実際には幼稚な者同士なのに、あるいはだからこそ、本当の成熟を先延ばしにした擬似成熟現象とでも言えようか。
 例のモラトリアムという言葉が世情をにぎわしたのもその直ぐ後ではなかったか。つまり大人に成り切れない中途半端な青年たちの猶予期間やその状態を表す言葉だ。おそらく日本よりはるかに生活水準が低く、教育制度もあまり発達していない国の若者より、日本の若者たちが知能指数はともかく、精神年齢が極度に低いということを日々実感していた。たとえば教科書的な知識から少し離れた、人生とか、あるいは他国の文化についてでもいい、教室で聞くと、すらすらと答えられる学生は皆無だった。つまりマルバツ式や選択問題には答えられるが、ある事についての総合的総体的な問題を向けると、途端に口ごもったり答えられないのだ。
 右のコメント欄で■さんが先日報告していたように、就職活動(いまは就活と言うらしいが婚活と並んでまことにイジ汚い、そして醜い省略日本語である)の受験生の中で、会社宛ての書類返付の封筒に「行き」とあるのは面倒臭い、初めから「御中」「様」と印刷して欲しいとほざく受験生がいるらしい。こうした若もん、いや馬鹿もんに投げつける言葉なら、坊ちゃんが赤シャツと野だに正義の鉄拳を見舞うときの悪口以上の罵詈雑言を浴びせたいが、ここは金八先生の「このバカチンが!」で我慢する。
 このごろいろんなことで疲れが出ていた後なので、今日は(も)支離滅裂になりそうなので、この辺で一時休止。最後に今日のキーワードならぬ金言を一つ。
 価値あるものの維持は手間暇かかるもの。究極の価値である愛こそ、まさに面倒なもの、私利私欲を捨てなければ手にすることさえできぬ宝物。要するに「行き」を「様」に直す面倒など面倒のうちに入らぬということだす。
 ついでにもう一つ。新入生を迎えて毎年のようにつぶやいていたこと。あゝこんな下らぬオリエンテーション・キャンプなど時間の無駄。半年いや三ヶ月でいい、こいつらに農業を経験させてやれたらなー(そのくせ私自身にはその経験皆無)。つまり種を植え、水や肥料をやることによって、大自然の中の絶妙な調和を実感すること。物事にはそれぞれ適切な手順があり、それを誠実に実践することによって、初めて実りをいただけるとの、これ以上ない摂理を体感すること…

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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AKB現象 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     現代社会は自然の摂理と乖離しているように思う事があります。原発問題などは、その象徴的なものです。先生が「大自然の中の絶妙な調和を実感する」と言われていますが、現代社会に欠けているものは、この「調和」だと私は思います。易経は陰と陽から万物は成り立っていると言っていますが陰と陽の「調和」が自然ということだと私は解釈しています。植物で言えば根幹が陰で果実が陽。人間で言えば徳性が陰で知識は陽。現代社会の特徴は手っ取り早く陽ばかり追求して、陰を疎かにしているように思います。今、問題になっている原発再稼働問題も陽に依存し過ぎた結果が再稼働しなければ集団自殺になると結論を出した大物政治家の発言に象徴されているんじゃないでしょうか。しかし、植物で言えば根幹、人間で言えば徳性が十分に養われているから果実が実り、知識が役立つ、つまり、自然の摂理に合致している。私はそう思います。

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