礼状一通

以下のお手紙に対するお返事が届きました。これもぜひご紹介したくいちばん下に、これもお許しもなく掲載させていただきます。ついでに私の恥ずかしい入力ミスも訂正させていただきました(27日朝)。乞寛恕。


李建華・楊晶ご夫妻様

 昨日は航空便で送ってくださったご夫妻の御労作、六冊の御本がついに届き、最近になく心躍る一日となりました。このブログを読んでくださっている方々にもご夫妻のご活躍をぜひご紹介したいので、その六冊を書き出してみます。
 下村湖人『次郎物語』の翻訳『次郎的故事』(中国工人出版社、1991年)、京極純一の『日本政治』(国際文化出版公司、1992年)、『ぼくらの村にアンズが実った』の翻訳『雁棲塞北』(国際文化出版公司、2005年)、團伊玖磨『パイプのけむり』の翻訳『煙斗随筆』(国際文化出版公司、2005年)、若松みき江『約束の夏』の翻訳『夏天的諾言』(当代世界出版社、2006年)、そして中国人作家余秋雨の『千年一嘆』の和訳(阿部出版、2005年)です。
 今年三月、南相馬ゆかりの作家・埴谷雄高繋がりでわが陋屋を訪ねてくださった若松雅迪さん(上記故・みき江さんのご主人)が『原発禍を生きる』の中国語訳をご夫妻に薦めてくださったのが縁で、お二人との交流が始まりましたが、しかしご夫妻が日中文化交流のために多大の貢献をなさってきた方々だということは最初のうち分かりませんでした。それでも、建華さんが広島大学で勉強なさったときの指導教官磯貝英夫教授や、直接の指導はなかったが遠くから敬愛されていたという稲賀敬二教授が、かつて私もお世話になった先生方だという共通点、そして楊晶さんが東大で勉強なさっていたころ住んでおられた幡ヶ谷の側の初台に、時間的には大きなズレがありますが私もまた住んでいたことなど、お二人とはすれ違いながら共通の過去を持っていたことなどを知るに及んで、お二人に最初から親しみを感じてきました。
 ともかく昨日は中国語の読める(当たり前ですが)頴美と大喜びしたあとにお礼のメールを差し上げたのですが、そのお返事が今日届き、さらに驚嘆させられました。それは2006年、2009年、2011年の日本のご友人たちへの年賀のお便りをメールで送っていただいたのですが、ご夫妻のさらなる御活躍のことが分かったからです。その多彩で広範囲の業績をすべて列挙するわけにもいきませんので、ここではただ翻訳のお仕事に限定させていただきますが、上記のもの以外に、平山郁夫著『悠久の流れの中に』と『玄奘三蔵・祈りの旅』を翻訳して一冊に納めた『悠々大河』(三聯書店、2009年)、山田無文の『和顔』と『愛語』を同じく一冊にまとめた『和顔愛語』(黄山書社、2011年)、北尾吉孝著『逆境を生き抜く名経営者、先哲の箴言』の翻訳『沖出逆境』(清華大学出版社、2011年)などなど、さらに素晴らしいお仕事のことを知ることができたからです。ともかく凄いラインアップです。そんなご夫妻に訳していただく拙著も果報者ですね。
 政治の局面ではいつまで経ってもぎくしゃくしている日中両国も、民間レヴェルではこのような地道で永続性ある仕事が黙々と続けられてきたことを改めて知りました。34歳という若い身空で中国熱河で亡くなった父・稔は、今年の初めに亡くなった母の記憶では、常々「日本人は全部悔い改めて出直すべきだ」と言っていたそうです。ですから承徳のお寺に預けてきた父の遺骨が文化大革命時に行方が分からなくなったと聞いても、母も私たち遺児も敢えて遺骨探しをしようとは思いませんでした。父が愛した中国の土になることは、父にとって本望であろうと考えたからです。2003年5月31日の「モノディアロゴス」にも書きましたが、もし日本人がブラジルへの移民のような合法的な道をたどっていたとしたら、さしずめ私などは「日系中国人」だったはずです。ですから日中両国が末永く仲良くすることは、私にとって特別な願いでもあります。
 今回ご夫妻に私の『原発禍を生きる』という文字通りの拙著を中国語に訳していただくということは、父の眠る中国への私なりの帰郷であり、日中両国の血が流れている孫の愛にとっては、将来御地に留学するための、あらかじめの(ちょっと早すぎますが)挨拶回りの意味があります。
 ともかく御夫妻のすばらしい訳業を少しでも知ってもらいたく、こうして公開のお手紙にさせていただきましたが、どうぞ今後とも日中文化交流のため一層のご健闘・ご活躍をお願いしながら今日はこれで失礼致します。本当にありがとうございました。



佐々木孝先生

 貴信を拝読させていただきました。恐縮の至りです。
 私たちが翻訳に取り掛かって出版した最初の本は『氷点』です。自己中心に生きる人間社会の醜さと寂しさの混沌のなか、いつも愛の心を持ち、善意に溢れ、明るく世の中と付き合い、粘り強く立ち向かう陽子に心打たれました。その感動を中国の読者にも伝えようという衝動に駆られて翻訳に取り掛かり、1987年中国大使館に務めた頃にその中国語版をようやく世に問いました。楊晶が1988年3月に雪深い旭川へ作者の三浦綾子さんと会い、中国へはまだ行ったことがないと聞き、ぜひ来てくださいとお願いすると、中国人に許しがたい罪を犯した日本人の私はとても中国に行けないと言われました。その話に大変感銘を受け、中日不再戦のためには文化交流と民間交流を通じて相互理解を深めることしかないと思ったわけです。中日国交正常化40周年を迎えているのに、「国民不信」がますますひどくなる現実を大変憂慮しています。感動・感謝の心を持たぬ政治家たちに任せては、いつか戦禍が訪れ、世は破壊されることがあってはならないと、それを阻むために微力ながら私たちなりに仕事をしているところです。その成果がみとめられて、いままで翻訳・出版したものを、中国人民大学出版社は、絶版となった『氷点』(三浦綾子)、『次郎物語』(下村湖人)、『かたち誕生』(杉浦康平)や新訳未刊行の『板極道』(棟方志功)、『白隠―禅画の世界』(芳澤勝弘)も含めて、「楊晶・李建華譯述系列」としてまとめて全12巻をこれから二、三年かけて再版・新刊することになりました。忙しくなるが、楽しみです。
 『原発禍を生きる』を拝読、翻訳させていただくことをご縁だと思っています。ご著書の多くの思索で共鳴できたことを中国の読者と共有したいと願って取り組んでいます。
 先生の文に「余秋波」とあるのは、「余秋雨」の入力ミスです。余秋雨さんの作品が大好きで、特に『文化苦旅』が人気が衰えずに読まれ続けてきています。楊晶がそれを訳して阿部出版から出されました。手元にもうないので差し上げることは出来ませんでしたが、いつか読んでいただきたい本です。

つい話がながくなりました。ではこの辺で。
皆さまにくれぐれもよろしくお伝えください。


                   李建華・楊晶 拝

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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礼状一通 への2件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     『原発禍を生きる』を改めて今日読み返しました。私は本に傍線を入れる習慣があるんですがそこを列挙します。「物事の正否、適不適、真偽などが以前よりはっきり見えてきたと思いたい。もちろんそれは物事についてだけでなく、恐いことに、人間についても言える」。「本来「生きる」とは、究極の自己責任のもとの行為なのである」。「私たち一人ひとりが、自分の持っているとてつもない価値つまり自由、そして人間としての尊厳に気付き、それをもっと大切にする」「かくありたいと願う自分こそが、実存する自分だ」。これらの言葉は人間の真実であり人生の真義だと思います。先生は常に真実を求め、本音で生きているから相手の建前が良くわかるんでしょう。『モノディアロゴスⅢ』の中にあった「稲賀敬二教授」の言葉の意味がなんとなくわかったような気がしました。「神様を知っている人によって書かれた洞察の鋭さは充分に感じられる」

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    阿部修義さん
     いついつも嬉しい書き込みありがとうございます。ときどき褒められ過ぎて恥ずかしくなるときがありますが、でも嬉しいことには変わりありません。それにしても、以前はあんなに熱心にコメントくださった澤井さんやエトワールさんたちはどうしたんでしょうね。疲れたのかな。私もときどき、頭の芯が痛くなるような疲れを覚えることがありますが、書くことによって辛うじて立ち直ってきました。書けなくなるときは、すなわち貞房の終わりですから。
     でも皆さんはそういうわけではないので、どうぞ疲れないよう、ゆっくり付いてきてください、もちろん先導していただいても結構ですので。

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