報徳訓

わが家で書庫と呼ぼうと思えばそうも呼べる部屋は、旧棟一階の、つまり私たち夫婦の居間の隣りの十二畳の洋間である。もともとは段差がある二つの部屋だったものを、四、五年前に繋いでフローりングを敷き詰め、両側の壁に本棚を天井近くまで誂えてもらった部屋である。
 しかし昨年末までは仕事机は二階だったし、一階に移ってきても、居間の窓際のパソコン用の簡易机を使っているので、隣りの部屋の本棚の本は何の脈略もなしに並べられたたままである。以前から言ってきたようにいつかは系統的に、つまり小宇宙のような書庫にしたいと思ってはいるが、まだその気力が湧いてこない。
 けれどこれから少しずつ暖かくなってくるので、来客を夫婦の居室に招じ入れるのではなく、一応はゆったりしたソファーも茶卓もある隣りの部屋を使おうか、と今日の午後思い立って少しずつ整理を始めた。すると部屋の片隅に縦45センチ、横65センチくらいの新しい額が見つかった。ばっぱさんが購入したものの一人では掛けることができないので放置していたものらしい。包み紙を剥いでみると「報徳訓」という字が見えた。尊徳翁の遺訓である。花押があるが読めない。立派な額で表装されているところを見ると、誰か名のある書家のものとは思うが、ともかく壁に掛けることにした。
 このごろは高いところに昇るときは注意することにしている。この歳になると、50センチしかない椅子から落ちても大怪我に繋がるからだ。最近もほぼ同世代の友人から、階段を踏み外して骨折したとの気の毒なニュースが入ってきた。そんなとき、何十年もこの家で一人暮らしをしていたばっぱさんのことを思い出す。八王子から移ってきてすぐの時、風呂場のガラス戸が一枚無くなっていたので、これどうしたの、と聞くと、いや服を脱ぐときよろけただ、と言う。そのときは何気なく聞いていたが、今になって考えてみると、九十近い老婆が一人、どれだけ不安な毎日を送っていただろうかと身に沁みて感じる。
 それはともかく「報徳訓」は以下のようなものである(右かっこ内のものは必要ないと思うが、ネットで見つけた訳者不詳の読み下しである)。

父母根元在天地令命  (父母の根元は天地令命に在り)
身体根元在父母生育  (身体の根元は父母の生育に在り)
子孫相続在夫婦丹精  (子孫の相続は夫婦の丹精に在り)
父母富貴在祖先勤功  (父母の富貴は祖先の勤功に在り)
我身富貴在父母積善  (我身の富貴は父母の積善に在り)
子孫富貴在自己勤労  (子孫の富貴は自己の勤労に在り)
身命長養在衣食住三  (身命長養衣食住の三つに在り)
衣食住三在田畑山林  (衣食住三つは田畑山林に在り)
田畑山林在人民勤功  (田畑山林は人民の勤功に在り)
今年衣食在昨年産業  (今年の衣食は昨年の産業に在り)
来年衣食在今年艱難  (来年の衣食は今年の艱難に在り)
年々歳々不可忘報徳   (年々歳々報徳を忘るべからず)

「いやー実に簡明な言葉が並んでいるね」
「そこが尊徳の尊徳らしいところ。同時代の安藤昌益とは大違い。でもこの簡明直截なところが尊徳翁の強さだね」
「つまり封建体制への容赦のない批判者も必要だけど、理屈抜きで圧政や飢饉に苦しむ農民たちへの実際的な救いの手も必要だということ」
「そういうこと。おや、下痢の方は治ったのかい?今朝方は何年ぶりかの下痢だと言って青い顔してたのに」
「このところの美子の排便の世話で疲れてストレスが溜まったんだろうな。でも汚い話で申し訳ないが、朝すっかり腹の中のものを出してしまったんで、もう大丈夫」
「でもこんな話をしてると、そら、右のカウンターの数字がだいぶ減ってきたのが分かるだろ?」
「アクセス数のこと? そんなもの気にしてなんぞいれますかってんだ。それでなくともこちとらにゃ気にしなけりゃならないことは山ほどある」
「そうだね、最初から言いたいことを勝手気ままに書いてきたんだから、それで寄ってくれる人が減ってきたって、文句は言えないよね。もともとその程度に移り気な人たちだったんだと諦めるしかないね」
「そういうこと」。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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報徳訓 への2件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     私が思ったのは何故二宮尊徳の「報徳訓」を「ばっぱさんが購入した」のか。そこを私なりに考えてみました。「主人が生前中に、省公署の方との意見交換の席で、強い口調で『日本人は全部出直して来て欲しい。出直さなければならない』といったことばが、はっきり私の心にささっていました」。当時バッパさん三十三歳、これを書いた時七十歳。『モノディアロゴス』2003年6月3日「バッパさんの夢、大陸を翔ける」の中に「ばっぱさんが購入した」理由の一つがあるように私は思います。この言葉は先生が繰り返し書かれていて、最近では2012年2月20日「かさこの女の子」の中でもふれられています。書棚から昔読んだ本で尊徳について書かれた本を少し捲っていましたら、こんなことが書いてありました。「尊徳は師を持たなかった。論語・中庸・大学も厳しい仕事の合い間に独学で身につけた。彼の思想は、『土』に向かってのおのれの体験からのみ構築された。だからこそ、『天地を以って経文となす』という。(中略)単なる道徳家ではなかったし、単なる農村復興家でもなかった。尊徳はあの時代にあっては特異なほど、社会を数学的・数値的に検討した、卓抜な科学者であったのである」。『老農の坂』邑心文庫。先生のお父様のことは勿論私にはわかりませんし、「報徳訓」を「ばっぱさんが購入した」理由もわかりませんが、「衣食住三つは田畑山林に在り」という言葉に何か人間の進むべき在り方、本来の人間のこころの在り方を見失っている現代人に指し示してくれているように私には思えてなりません。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    エトワールさん、尊徳翁の思想を的確にまとめてくれてありがとう。とりわけ「見えぬ経をよむ」は、翁の思想に限らずすべての優れた思想の根本義であることを、われわれは肝に銘ずべきです。明日京都から我が家に、尊徳七代目の中桐万里子さんをお迎えしますが、南相馬にも彼の思想を現代に、とりわけ大震災後の真の復興に生かす若い世代が出てくることを心から願ってます。

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