空恐ろしい国

ここに二冊の文庫本を合本にしたものがある。厚紙で補強し、さらにそれを藍色の布切れで包み、そして背中を豚革で装丁したものである。だいぶ昔、今のように狂ったように装丁しまくった時代の名残である。ただ背文字が老眼では読みにくくなってきたので、今回その部分だけ少し大きな字のラベルに変えた。堀田善衛の『スペイン430日――オリーブの樹の蔭に』(ちくま文庫、1989年) と『日々の過ぎ方――ヨーロッパさまざま』(ちくま文庫、1991年) である。
 しっかり読んだことがなかったので、ところどころ拾い読みをしてみたが、これがなかなか面白い。前者は1977年7月から翌年の9月まで、北スペイン、カンタブリア海に面したアストリア地方のアンドリンという村での生活を綴ったもの、後者はその後一年ほど日本に戻った後、今度はバルセローナを中心に7年ほどのスペイン滞在の折々に書かれたものである。
 作家の長期外国生活ですぐ思い出すのは、1970年からポルトガルのサンタクルスというやはり寒村に滞在した壇一雄のことであるが、それは2年間であり、堀田善衛の十年近くの滞在には遠く及ばない。
 別に長さを競わせるつもりはないが、一スペイン文化研究者にとって彼の四巻にも及ぶ大作『ゴヤ』(1974-77年) 以来、そのスペイン文化論には多くの刺激を受けてきた。だからこの2冊のスペイン滞在記の中にも、スペイン研究者の顔色なからしめる多くの卓見が随所に輝いている。
 しかし今回ぱらぱらとページをめくりながら我が意を得たりと感じ入ったのは、そのスペイン文化論ではなく、外から見た日本の異常さについての数々の感想である。たとえば次のような指摘。

八月三日(miércoles)

 留守宅から、家内用の低血圧の薬と「週刊文春」を送って来た。
 こういうところで日本の週刊誌を見ると、日本という国がつくづくすさまじいばかりに空恐ろしい国になりつつあることが痛感される。つまらぬ私的な情報、あるいは裏情報と呼ぶべきものに尾ヒレがついて、それが莫大な金どころか、いわば産業になる。しかもそういう情報が個人の生活を蔽い、その分だけ生活に充実感がへずられて行く。

 日付の後の括弧の中のスペイン語は水曜日の意味である。いつまで経っても曜日を覚えられないのでスペイン語で書くことにしたからである。いやそんなことはどうでもいい。ここで言われている「空恐ろしさ」が、あの大震災後もいささかの変化も見せず、いやむしろさらに加速していることの「空恐ろしさ」のことである。堀田善衛はこの文章を書いてから十年後の1998年に亡くなったが、もし今生きていたらどう思ったであろう。やはり「加速している」と言うに違いないと思う。
 日本人は古来、というより近世以後、自分たちが外国人にどう思われているか、どう見られているかを、異常なほど気にするようになってきたが、しかし不思議なことに、自分を客観的に見るという視点が決定的に欠如している。なぜか、真の意味での主体性が無いからである。昨今のクール・ジャパンやオタク文化の隆盛にただただ気を良くするだけで、それが果たしてどういう意味を持つかを冷静に内省する視点が欠けている。
 昔むかし、「スペイン文化論」の授業で強調したことは、スペインがとりわけ「近代」をめぐって日本とは対極的な姿勢をとった国であることを「利用」して、スペインを自分自身を客観的に見るための「合わせ鏡」と見做すことだった。これはスペインかぶれ、外国かぶれとは正反対の姿勢である。
 それはともかく、ときどきネットの新聞やテレビの番組を見るが、その度に前述の堀田善衛とまったく同じことをその度に感じる。私の言葉で言えば「魂の液状化現象」である。3.11 を経験したからであろうか、その「空恐ろしさ」は日を追うごとに募ってきている。これが世を拗ねた老人の被害妄想的感慨でないことを祈るのみである。助けてくださーい!

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

空恐ろしい国 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     今日の朝日新聞の一面に「原発事故は人災」と大きく載っていましたが、「最大原因は、事業者と政府の責任の境界があいまいだったため」と何とも情けないことが書いてあるのには唖然としてしまいました。日本中が物事を功利的に考えているから誰もが責任を取りたくない。自分にとって不利益を蒙るのは真っ平ごめんということだと思います。

     先生が「自分を客観的に見るという視点が決定的に欠如している。なぜか、真の意味での主体性が無いからである」と言われていますが、主体性を持つということは責任も取るということですし、自分を客観的に見るということは、功利的ではなく良心に従って事の善悪を判断するということだと私は思います。

     アレキシス・カレルが『人間この未知なるもの』の中でこんなことを言ってます。「近代文化は人間が作り出したことには相違ないが、人間には適していない。それは人間を知らずに作られた。人間の欲望・想像・理論・希望によって、放埓に、また偶然に作られたものである。科学的発見の中からいろいろなものを選択したが、この選択は人間の最高の幸福を考慮して行われたものでなく、それは自然放任であった。そして、近代文化は失敗したのである。それは真の意味において人間に適合しないものを多く作ったのである」。原発問題は正に、カレルがいう「人間に適合しないもの」だと私は思います。

     先生が「魂の液状化現象」という言葉をご自身で作られ繰り返しモノディアロゴスの中でも言われています。『原発禍を生きる』の最後でも言われています。「玄妙な大自然の摂理に対する畏敬の念や、人間の浅知恵をはるかに超える秩序への畏怖の感情が消えてしまっていたとしたら由々しき事態だ、それこそ私の言う「魂の液状化」ではないだろうか、と」。

     私は先生の言われる「魂」とは人間の良心だと自分なりに解釈しています。外国人が日本のことを「顔の見えない国」だと言っている話をたまに耳にします。物事を功利的に考えないで良心に従って事の善悪を判断して行動すれば主体性のある日本に生まれ変わると信じています。

     
     

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください