自分の中では、ほぼ一日おきくらいのペースで書いてきたつもりだが、新たに設けられたカレンダー(右に見える)によればそんなことはなく、二日おきから、時には四日おきの間隔になっている。それが気になり、いつしかプレッシャーになって、今日もこうして書くこともないのに何か書かなきゃ、とパソコンに向かっている。
風邪のことでも書こうか。ここ数年風邪を引かないなどと豪語していたが、今年の夏はとうとう風邪を引いてしまった。いわゆる夏風邪というやつで、やたら咳が出たが、熱もなく体のだるさもあまり感じず、要するに病気になったという実感はなかった。しかし昨朝から昼過ぎにかけてのそれは、もしかしてヤバイことになるのでは、と心配になるものだった。つまり体がだるく、節々が痛く、食欲が落ちたのだ。
しかしなぜ引いたか、その原因ははっきりしていた。早朝、掛け布団がずり落ちていて寒くて目が覚めたときにかかったのだ(と思う)。つまり東側の押し入れ(といっても現在は明かり取りのために上半分は出窓のようになっている)にベッドを寄せているため、寝返りを打つたびに反対側に布団がずり落ちるわけだ(昨晩から襖とベッドの間に布団を挟みこむようにした)。
ともかく風邪の原因ははっきりしていたが、美子の介護に支障が出るので、早く治さなければならない。頴美が心配するので、昼食はなんとか我慢して食べた。幸い薬は買い置きの葛根湯があったのでそれを飲み、いつもはソファーで仮眠を取るだけなのだが、ともかく昼食後は布団にもぐることにした。結果的にはそれが幸いしたのか、二時間ほどぐっすり寝たあと、これは治るぞ、と確信めいたものを感じた。
つまり日ごろの行ないがいいから(?)、およそ半日で風邪を治した、いや治ったわけである。美子をベッドから車椅子に、車椅子からベッドに移す際も、要所要所で必要な力を振り絞ることもできるようになった。
今回は幸いにも短時間で風邪は去ってくれたが、持病その他で体力が落ちた場合、気力でカバーしようとしても無理な話で、そうであるならこれからの日々、いかに体力を維持し、病気にかからないようにしていかなければならないか、もう少し真剣に考えなければなるまい。美子が今の状態をいつまで維持できるのかも心配だが、それよりも介護しなければならない私がどこまで頑張れるかどうか、考えて見ればお先真っ暗…いやいやそこまで悲観的に考えてません。
でもここ数日、いろんな人から喪中のはがきが届く。友人知人が親なり配偶者に先立たれる年齢層になってきたのだろう。私自身もばっぱさんの喪に服してますとはがきを出さなければならないのだが、年賀状も書かないが喪中のはがきも出さないだろう。社会的な慣例・常識からは外れるが、残された短い余生、喪に服すというより、死者とともに、その日その日を精一杯楽しく生きるべく努めた方が死者も喜ぶと思うからだ。家のばっぱさんは間違いなくそう考える人だった。ものに頓着しない性質(たち)だからというより、何回忌などと死者をさらに黄泉の国に遠ざけることや、死者と生者を区別することを嫌ったのかも知れない。愛する夫・稔さんのすべての回忌を祝わないでしまった。
美子は今日、デイ・サービスから誕生日の花束とお祝いの手紙をもらって帰ってきた。あと数日で美子も六十九歳になるのだ。昔は長生きの部類に入ったと思うが、今は六十九歳はまだまだ若い部類…
いやいや歳のことなど考えずに明るく生きましょう。明日は明日の風邪を引く、おっと間違い、風が吹く、です。
【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年4月19日記)。
先生ご家族同様、わたしも母が亡くなって十年たちますが、ただの一回も法事らしいことをやったことはありません。
奥様、お誕生日おめでとうございます。奥様のご健康を心からお祈り致します。先生も風邪をひかれたそうですが、ご体調には十分注意してください。
2012年12月8日
阿部修義様
家内へのお祝いのメッセージ、ありがとうございました。今夜、無事誕生日を祝いました。食事のあと、今度の幼稚園のクリスマス会で踊る「~パニュパニュ」とかのダンスを、愛が踊って見せてくれたので、家内も分かったのかニコニコ顔でした。どうか阿部さん、そして皆さん、お元気にお過ごし下さい。