大それた夢に向かって

父の死後、文中の二人の人物の正体が知れた。父の尊厳のために実名を伏せることにした。


RとJに

 今日は少し長くなると思いますから、お二人とも時間のあるとき、ゆっくり読んでください。お二人宛ての私信ではありますが、内容は例の一大プロジェクトに関するものですから、前から言ってきたようにいわば衆人環視のもとのはかりごと、すべてオープンにします。
 さて何から始めましょうか。そうだ、まだ間に合う提案なので、この「モノディアロゴス」と富士貞房のことから始めましょう。
 実は論創社から『原発禍を生きる』を出してもらうとき、大いに悩み迷ったのは、これを実名で出すかペンネームで出すか、という問題でした。結局、出版社側の意向を尊重して実名で出したのですが、今でもその判断が良かったかどうか、疑問に思っています。というより、後悔しています。このブログの右上にも書いていますように、モノディアロゴスは、私の心積もりでは日記、随筆、あるいは小説などといった従来のジャンル分けを超えた、もしくは無視した、新しい自己表現の試みだからです。敢えて「作品」と言いたいのもそのためです。
 ですがこの密かな願望は、ほとんどの人に看過されたり無視されたりしています。私の力不足のせいでもあるので、この事態を甘受するしかありません。でもなぜそのことにこだわるかと言えば、私は次のように考えているからです。すなわちもっと本質的・根源的なことを言うなら、私には従来の事実と虚構の二分法を疑問に思ってきたから、はっきり言えばそれに異議申し立てをしたい、さらには否定したいとさえ思っているからです
 確か近松門左衛門が言った「虚実皮膜」という言葉が大好きです。つまり芸(すべての創作行為)の真実は、虚構と現実との微妙なはざま(ばさまじゃありませんよ)にあるという考え方が。
 ですからもしも出版元のアルフォンソさんが同意してくれるなら、今度のスペイン語版は実名ではなく「富士貞房」名で出してもらいたいのです。これまで何度も言ってきたように、この名前に込められたスペイン語の深い(?)意味を考えたら、実にインパクトのある著者名とは思いませんか?
 そしてこれには、実はしたたかな魂胆というか、もっと露骨に言えば商魂が、一つの隠れた目論みがあります。つまり今回、Jさんに申し込まれたスペイン・テレビのインタビューなどを追い風(先日Jさんはこれをスペイン語で viento en popa、つまり船尾への風、だと教えてくれました)にして、『原発禍を生きる』に続く企てをそろそろ具体的に考えなければ、と思っているのです。先日Rさんには提言しましたが、たとえば『モノディアロゴス』(行路社版)には、以後の作品(!)の萌芽とも言うべきもの、とりわけスペイン文化論としてまとめることが出来そうな珠玉の(と自分で言ったら世話がないですが)作品がごろごろ転がってます。つまりスペイン研究者(イスパニスタ)としては、自分でも二流あるいはそれ以下、と思っていますが、富士貞房としてはかなり(んっ?)の水準にあります。で、第二弾として、たとえばRさんのお友だちかだれかの可愛いイラストで飾るなどして、エッセイ集としてアルフォンソさんのところから出してもらえば、などと、それこそ獲らぬ狸の皮算用をしているのです。
 Jさん、こんどアルフォンソさんに会うとき、そんな話をちらっと切り出してもらえません? もちろん作者名の方が大事な話ですが。
 長くなりますので、今日は最後に大きな冗談を言いましょうか。こんど選出された新教皇のことご存知ですよね? 初めての南米出身の教皇フランシスコ一世です。なにやら中道穏健派の、どちらかと言えば保守系の、いやそんなことはどうでもいいのですが、彼が名乗ったフランシスコが歴代教皇では初めてだというのがちょっと不思議でした。つまりあのアッシジの聖者こそ原発などで散々に傷みつけられている地球環境を救うシンボルになりうる聖者なのに今まで誰も教皇名に選ばなかったのが意外という意味です。
 いや話の要点はこれからです。富士貞房氏の霊名、つまりカトリック信者が洗礼時に選ぶ名前、が何であるかご存知? ビンゴ! そうです、そのフランシスコ(イタリア風に言えばフランチェスコ)なのです。じゃ、新教皇の出身修道会は? そう、初めてかどうかは分かりませんがイエズス会、本物の教皇が Papa Blanco つまりその僧服の色から白い教皇と言われるのに対して、教皇庁で隠然たる勢力を誇ってきたその会の総長が Papa Negro つまり黒い教皇と揶揄されてきた修道会、そしてあの上智大学の設立母体の修道会です。ですから今回の教皇選出で、黒い枢機卿が白いパパに変身したというわけ。じゃ、富士貞房氏が若いころ五年ほど修行した修道会は? ピンポン!そうイエズス会でした!
 いやいや、こんな偶然の符合にさして意味がありません。大事なのは次のこと。つまりこれから私たち三人が協同して作り上げていく(そうですよ近松門左衛門の世界ですよ)作家・富士貞房と新教皇との歴然たる違い(当たり前だのクラッカー!)というか対照的な姿を上手に利用して…パロるつもり? ぶるるっ滅相もございません、そんな大それたことを。だいいち貞房さんは教会から離れていますが(佐々木さんが? いえ違います、貞房さんのことです)、たとえばこの四月に頴美と愛が側の教会で洗礼を受けることをむしろ喜んでいるくらいですから、そんな非難したり否定したりするつもりはまったくありません。でも少しパロるかな、やっぱちょっと茶化すかも知れません。
 ここで貞房氏の宗教論を展開するつもりはありませんが、彼が考えている宗教は、世にハビコルとんでもない宗教は論外としても、たとえばキリスト教や仏教やイスラム教は人類が織り成したもっとも崇高で美しい夢の織物であり…すみません、まだしっかり考えたわけではありません。おそらく死ぬまで考え続けるであろう問題の一つです。
 先ほどの話に戻ると、そういう貞房氏の思いや夢を作品化していくことによって、人間とは、生きるとは、そしてその人間が生きなければならない世界はどうあるべきか、などを読者と一緒に考えて行きたいわけです。取りあえずはスペイン語を表現媒体として。
 Rさん、Jさん、長丁場の企てです、それぞれの生業、つまりRさんとJさんは三島でも村上でも売れそうな作家の本の翻訳などで大いに稼ぎながら、でも富士貞房造形という難事業をしつこく持続的に挑戦していきましょう、われら三人、天下無敵の最強トリオであることを信じて。ムーチョ・アニモ!(頑張ろう!)

私にとって霊名は、いまや退化した尻尾、あるいは成人になると(聖人ではありません!)消える蒙古斑のようなものになってしまいましたが。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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大それた夢に向かって への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     先生がモノディアロゴスを執筆されることと毎日の生活を実践されることとは同じ意味なのかも知れません。つまり、先生にとって真実は追究するものでも研究するものでもなく、生活すること、実践することのように私は感じます。

     人間には常に欲望があり、それを手に入れるために人類の進歩があるわけですが、その欲望という頭脳の中で描いたものが人間の肉体の許容範囲を越えた象徴的なものが原発であり福島の人たちを苦しめている放射能汚染なわけです。

     先生はモノディアロゴスを執筆され始めたころから原発に対して常に否定されていました。そして、現実に3.11で大事故が起き今でも家族と離れて生活を強いられている人がたくさんいます。2002年9月3日「福島第一原発の町で」の中で、先生はこう言われてます。

     「原子力というこのパンドラの匣を開けて以来、人類は常に破滅の危機に晒されることになった。匣を急いで閉め、以後決して開けることのできないよう封印することはもう不可能であろうか。専門的な知識がないままに言うのだが、原子力の操作、その維持管理に絶対的な安全性など土台無理である以上、早急に封印する方向に叡智を結集すべきではなかろうか」。

     先生の不安は8年半の年月が経過して不幸にも現実のものとなってしまいました。先生が執筆されるということは、常に生きること、実践することであり、真実を越えた未来の予言のように私は感じます。

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