佐喜眞美術館の皆様へ

佐喜眞美術館の皆様へ、と書きましたが、実はこうして書き出したものの、具体的にどなた宛に書くべきか迷っています。今や終生の友となった鄭周河さん、彼と出会うきっかけを作って下さり一貫して写真展開催の推進役を務めておられる徐京植さん、そして今回も素晴らしい映像作品を創って下さった鎌倉英也さん、そしてスタッフの皆さん、さらに先日わざわざ拙宅を訪ねて下さった佐喜眞美術館の■さん、そしていつかお会いしたいと願っている佐喜眞館長…会場を訪れる皆さん…そう、やっぱり「皆様へ」と書くしかありません。
 先日、その■さんから、佐喜眞美術館設立の経緯や趣旨、そして現在の活動など、とりわけ丸木ご夫妻の「沖縄戦の図」が常設展示されていることをお聞きして感動しました。また美術館が普天間基地に楔(くさび)のように打ち込まれた場所にあることを知ってショックを受けました。まるで米軍基地に仕掛けられた時限爆弾ではないか、と一瞬心の中で叫びました。もちろん詰められているのは火薬ではなく、言うなれば平和への強い意志と祈りです。いつかかならず、いやいやとっくにその「時限」が来て、既にじわじわと静かにその効果を及ぼしているではありませんか。
 今回の東日本大震災そして原発事故の被災地・南相馬から始まった鄭周河さんの写真展が、原爆の図丸木美術館、東京、を回って最後に(幸い最後ではなさそうですね)沖縄で開催されることの意義を漠然と感じてはいました。しかしその深い意味と意義は私の中で日を追うごとに徐々に明確な輪郭を見せてきました。もちろんそのようなことは、今回の開催にかかわってこられた皆さんには、初めから分かりきったことでしょうが、遅まきながら私もなんとか自分なりの考えがまとまってきたので、それをぜひ皆さんにお伝えしたくなったのです。
 つまり、南相馬でのギャラリートークの時点で沖縄での開催を知っていたなら、一言、沖縄について言及したであろうこと、いやいや白状しましょう、そのとき私の頭の中で沖縄は完全に忘れられていたのです。本当に恥ずかしいことですが、私を含めヤマトンチューは、時に沖縄に対する忘恩を思い出し、申し訳ない、と思うことはあっても、普段はまたこうして忘れてしまっているのです。
 とにかく、沖縄での開催が実現していなかったとしても、当然沖縄について言及すべきでした。というのはトークの中で私は、かつて日本が朝鮮や中国など東アジアの人たちに対して犯した悪行に触れながら、今回の被災体験を経て初めて私たちは彼らの苦しみや悲しみ、そして屈辱感がなんとなく分かるようになった、と言いました。でも大変なことを言い忘れていたわけです。つまり東アジアの人たちに対する本当の謝罪も和解もいまだ成立していないのは事実ですが、しかし行為そのものは過去のものです。また原発事故も未だ収束も賠償もなされていないのは事実ですが、しかし事故そのものはやはり過去のものです。ですが沖縄は今なお国策によって自分たちの土地を奪われ続けている、つまり現在進行形の悲劇だというとても大事な一点です。
 沖縄基地問題についての自分の無知を晒すのは恥ずかしいですが、しかしその私でもはっきり分かっていることがあります。それは戦略上どうしても沖縄に基地がなければならない、というのは完全にインチキだということです。現在の兵器の性能からして基地はどこでも同じなのです。かつての冷戦構造にあって仮想敵国であった共産圏の国々は雪解け、そして壁の崩壊と続いてもはや脅威ではなくなり、その後はイスラム圏との対立…いやいや国際情勢について私が総括するまでもないので端折りますが、要するに現在新たな脅威となっている北朝鮮でさえ日本やアメリカ本土にも達する射程距離の長いミサイルを保有しているのですから、基地が沖縄でなければならない理由などどこを探してもないわけです。なぜ相も変わらず基地であり続けるのか。
 それは今回の原発事故の被災地である富岡町に今も牛やダチョウの世話をしながら留まっている反骨の男が(申し訳ありません、彼の名前さえ知りませんが)、原発立地についていみじくも言っている通りです。つまりコスト面だけを考えるなら、たとえば東京湾の方がずっといいのです。なぜ福島の浜通りなのか。どんな美辞麗句を並べて誤魔化しても無駄です。つまりは浜通りが首都圏に比べるとずっと人口も少なく、経済的見返りをチラつかせれば住民はやすやすと靡くと考えたからです。 もちろん沖縄がそんな甘い言葉にやすやすとひっかかったわけでもなく、そこには大変なご苦労と反対運動があったことは私も知ってます。でも歴代の政府はあたかもそれが唯一可能なぎりぎりの防衛線だなどと詭弁を弄して犠牲を強い、強引に基地を継続させてきました。
 すみません、この間の正確な事実関係をしっかり調べたわけではありませんので、沖縄の人たちの顰蹙を買うようなことを軽々しく言うのは止めます。ともかく私が沖縄の人、美しい言葉を使えばウチナーンチュの深い悲しみと、いやそれ以上に深い怒りに強く印象付けられたのは1987年に読谷村の女子高生が日の丸をどぶに捨てた事件でした。ウチナーンチュがあの事件を当時どのように受け止めたか、そして今はどう思っているかについて一切知りません。しかしその事件は、佐喜眞美術館の楔と同じく、長いあいだ私の心に突き刺さったままです。今回の原発事故の後、迎えに行った自衛隊員に対して、老いた連れ合いの介護のために避難することをきっぱり断った双葉町のおばあちゃんの場合と同じです。つまりそのお名前、そしてその後どうなったか一切知りませんが、同じく私の心に深く刺さったままの楔のように、国家と個人の究極的な関係を私に教え続けているのです。
 この間の参院選の無様な結果、つまり原発事故などまるで無かったかのように、経済優先、原発再稼動を主張する自民党の圧勝、しかも事故被災地の一人区福島でさえ自民党候補者が次点候補者に二倍以上の差をつけて当選したことに落胆を通り越して怒りさえ覚えてますが、そんなときオキナワで鄭周河さんの写真展が静かに、しかもウチナーンチュの多大の共感のうちに開催されることの意味を噛みしめています。つまり鄭周河さんが撮った南相馬の風景の静謐な画面の中に平和への強い意志と祈りが装填されていることを他の誰よりも感じ取ることのできる方々だと信じているからです。
 私はこのごろ、このごまかしと詭弁を弄して辛うじてバランスをとっているかに見える日本のことを考えて、ともすれば心が折れそうになるほどの絶望感に襲われますが、そんなとき、私のブログからも見れるようになっている「奪われた野にも春は来るか」の最後の場面を繰り返し見、そして聞くことにしています。つまりそうすることによって再び勇気を得るためです。こんなことを言うと鄭さんは恥ずかしがるかも知れませんが、いままで何度も繰り返し書いたり言ったりしてきたように、それが原発事故後に見た、そして聞いた、もっとも美しい、そして心に深く届く画面であり言葉だからです。とりわけ萱浜の海辺で大地に膝をついてする韓国式の敬虔な祈りの姿にいつも感動しています。
 もちろん私が鄭さんの写真から読み取っているのは、平和への静かな祈りだけではありません。読谷村の女子高生の場合もそうでしたが、鄭さんの言葉には深い悲しみと同じ量の、あるいはそれ以上の怒りが感じられるからです。ヤマトンチューの私がウチナーンチュに心からの共感を寄せることができるのも、今の自己中心で生活優先のヤマトンチューにはすっかり無くなってしまったその正しい怒りがウチナーンチュに濃厚に感じられるからです。ともあれその鄭さんの祈りが、沖縄の海と空、そして無念にも基地が散在する大地の上に、心から願います、米軍兵士も含めたすべての人の心にも静かに確実に伝わっていきますように、と。
 最後に個人的なことを言わせていただければ(と言って私はいつも個人的なことしか書いたり語ったりしてこなかったわけですが)、もう十年以上も前になります、私が教師生活に見切りをつけて南相馬に戻ってくるのと時を同じくして、『ドン・キホーテ』完訳などたくさんの優れた業績を残した牛島信明さんもまた東京外大を辞めて琉球大学に移るはずでした。それまでも何回か集中講義で行った沖縄のことを話す嬉しそうな彼の顔を今でもはっきり覚えています。しかし残念なことに教壇に立つ前に彼はとつぜん病に倒れ、あっという間に帰天してしまいました。ですから今でも私は、あのインディゴブルーの海と光輝く砂浜、そしてその上に果てしなく広がる真っ青な空の沖縄で、本土の学生より数段真剣な学生たちに囲まれて最後の教師生活を楽しんでいる牛島さんの幸せそうな姿を想像することがあります。いや時にはその彼の姿に、本土の大学では、特に最後の日々には味わえなかった教える喜びいっぱいの私自身の姿を重ね合わせることもあります。
 もちろんそんなことが出来る年齢はとっくに過ぎ、家内の介護もあって死ぬまでこの南相馬を一歩も出ない覚悟で生きています。でもせめて想像の世界では、元気な家内と沖縄を訪ね、基地の無い沖縄のために日々闘っているウチナーンチュと泡盛でも一緒に飲むつもりです。
 変なお手紙になりましたが、私の心からなる願いは、鄭さんのお国の韓国、そして私の母の従弟である作家・故島尾敏雄がヤポネシア論を展開しながら愛して止まなかった沖縄が、これから先もずっとこの南相馬と深く結ばれること、とりわけ若い世代の者たちが、原発の無い、基地のない、そして戦争のない平和な世界を構築するために手をつないでいくことです。
 どうぞ写真展の開催期間中、たくさんの参観者が貴館を訪れ、鄭さんの写真から多くのことを感じ学んでくださいますように!

   二〇一三年七月二十五日  南相馬の寓居にて、佐々木 孝


※拙文を読んでくださった或る方から以下のようなご指摘がありましたので、さっそく訂正させていただきます。ご教示ありがとうございました。

「ナイチャー」という言葉は非常に感覚を伝えるのは難しいのですが、現在沖縄に住んでいる「ヤマト」の出身者のことを指します。その「ナイチャー」という言葉の中には、「本土から来た奴」という、「ヤマト」に対する沖縄の差別的、一種侮蔑的意味合いも含んでいます。
 つまり、沖縄に今暮らしているが沖縄生まれではない人間を「ウチナーンチュ」が卑下して言う言葉が「ナイチャー」で、本土生まれで本土に暮らしている「ヤマトンチュー」とは違います。沖縄の人たちの中にも「ナイチャー」という言葉を恥ずかしい言葉だと考えている人もたくさんいます。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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佐喜眞美術館の皆様へ への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     ここ最近ですが、先生の初期のころのモノディアロゴスをゆっくり読み返しています。牛島信明さんのお名前も出てきました。私が先生の執筆されている文章を拝読して感動するのは、亡くなられた一人ひとりの先生と接点を持たれた人たちとの交友をモノディアロゴスの中で機会あるごとに取り上げられ、先生の記憶に常に留め、決して忘れないでいられることです。モノディアロゴスのどの部分を読んでいても昔書かれた文章と今のものとが常に繋がりがあり、一貫性のある考えと真実を伝えているものだとくり返し拝読するたびに感じます。

     「佐喜眞美術館の皆様へ」を拝読し感動しました。「戦争のない平和な世界を構築する」という先生の願いが、モノディアロゴスの中で一貫して言われている先生の願いだということを初期のころの文章を読み返していて改めて感じました。

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